次の日、不二は学校にすら来なかった。
昼休みに菊丸がわざわざ報せに来たのだ。生徒会室まで、大石と共に。
明日の生徒総会のための資料を整理しながら、手塚は溜息混じりに答えた。
「……休み、か」
「風邪だってー」
「そうか」
「昨日、きっとこじらせちゃったんだろーなー。寒い中で待たされてー」
自分を責めている菊丸は無視しながら、手塚はただじっと資料に目を通していた。
菊丸は膝立ちになって、座っている手塚に視線を合わせた。
「ぶっちゃけて聞くよ。手塚、不二に何言ったんだよ」
手塚は資料から目を離さずに答えた。
「……お前に答えることではない」
「……俺は心配してやってるの!! なのになんだよ、その言い方!!」
気色ばむ菊丸を、大石が宥めていた。
「おいおい英二、……手塚を責めるのは間違ってるよ。まだ、不二が休んだ理由もわからないのに」
「大石は手塚に甘すぎる! 不二、あれで繊細なんだからな!」
自分よりも不二のことを解っているような菊丸の発言に、手塚は僅かに不快感を覚えた。
手塚には不二が何を考えているのかさっぱり解らなかった。
だが、お前なら解るのかと。
そう思った。
「……だったら、お前が不二の相談に乗ってやればよかっただろう、菊丸」
手塚自身、意地悪な言い方だと思っていた。だが言葉になるのを止める事は出来なかった。
そう言うと、菊丸は少し下を向いた。悔しそうに口を尖らせている。
「俺だってそーしたいけど、俺じゃ駄目なんだよ。不二ってプライド高いから、友達の前じゃかっこ悪い所見せたがらないもん。人に心配されるのが嫌いなんだ、不二。だから無理やり笑顔作ってたし」
机の上に置かれている菊丸の手が、微かに震えていることに気がついた。
「……でもさ、手塚は不二より強いから。多分不二だってちゃんと弱いとこ見せられる。本音だって見せるかもしれない」
菊丸の言葉に、手塚はしばし考え込んだ。
不二が自分に本音を見せるかもしれない、だって?
どうして、菊丸はそう考えられるのだ。
「そー思ったから、手塚に任せたのに……」
菊丸はそう言うと、手塚の手から生徒総会の資料を奪い上げた。呆然としていた手塚は止める間もなく簡単に資料を取り上げられてしまった。
「手塚がいけないんだからな! 不二、弟の事で結構落ち込んでたのに、手塚が構ってやらないから……!!」
「返せ、それは明日の……」
「不二、手塚とテニスできなくて、寂しがっていたんだからな!!」
菊丸の言葉に、手塚はふと目を見開いた。奪われた書類のことも気がつけば頭の中から消えていた。
「なのに……こんなもんばっかり構ってるから……!!」
衝動で資料を破ろうとした菊丸の手を、大石が止めた。
資料を菊丸の手の中から取り上げる。
「……それは止めるんだ、英二。手塚だって大変なのに。……手塚に何でも任せようとしてた俺たちにも問題あるよ」
「おーいし……」
大石に諭されて、菊丸は上げた手をだらりと下げた。
菊丸の手から取り上げた資料を、大石は手塚に返した。
「はい、手塚」
しかし手塚は、その資料を受け取らなかった。
「手塚?」
菊丸の方を睨みながら手塚は呟いた。
「……どうして、お前にそれが言える」
「……え」
「お前なら、不二のことが解ると言うのか。解ってやっていると言うのか?」
手塚の言葉に、二人は黙り込んだ。
「人は他人を決して理解できないと、不二が言っていた。俺もそう思っていた。実際、昨日俺には不二が何を考えているのか解らなかった。今だって解らない」
どうしてあんなことをしたのか。
どうしてあんなことを言ったのか。
どうして泣いたのか。
そして、自分に何を求めているのか。
「解らないことだらけだ。解ってやってないのにこっちが勝手に心配しても上手くいくはずがない」
結局、自分は不二を怒らせて、そして泣かせただけだった。
不二にあんなことをされたことに対する怒りが薄いのは、自分の責任を感じざるをえなかったからだ。
もっとちゃんと解ってやっていれば、あんな顔をさせる事はなかったかもしれないのに。
大石も菊丸も、手塚の独白のような言葉に、しばらく黙り込んでいた。
やがて、菊丸がぽつりと口を開いた。
「……手塚勘違いしてる。解ってやるとか、解ってやれないとか、そういうの多分問題じゃない。俺だって不二の考えなんて解らないよ。あいつって思考回路まで凡人離れしてるし。でも」
強い語調の菊丸に、手塚は俯いていた顔を上げた。
「俺は不二のこと友達だと思ってる。友達だから大切にしたいと思ってる。大切にしたいからいろいろと考えてやってる。何すれば不二が喜ぶのか、楽になるのか」
「…………」
「不二、手塚とテニスするの、凄く楽しそうだから……不二が悩んでるなら手塚が聞いてやればいいと思った」
そこまで一気に言うと、一つ大きく息をついた。
「……それだけだよ。結局自己満足かもしれないけどさ」
その言葉に、頭の中でずれていた何かが噛み合わさったような気がした。
菊丸を受け継ぐように、大石は咳払いをして話し始めた。
「……手塚と不二に昨日何があったかは解らないよ。言いたくないなら言わなくていい。でも両方の友人として、これだけは言いたい」
大石はそう言って、手塚に笑いかけた。
「……何かこじれてるのなら、絶対に一度話し合った方がいい。喧嘩してるなら顔合わせづらいとは思うけど……仲裁は引き受けるからさ」
先ほど、手塚が受け取らなかった資料を再び差し出した。
「……気持ちだけはありがたく受け取っておく」
大石の手から手塚は資料を受け取った。
「だが、これは、俺と不二の問題だ」
心遣いは嬉しかった。
だが、これはお互いにかなりプライベートな領域だ。
「……そうか、じゃ、任せるよ」
「大石、でも……」
何か訴えるような菊丸の肩を大石は叩いた。
「手塚がそう言ってるんだ。外野はもう少し様子を見よう。それからでも遅くないよ」
「…………」
菊丸は不満そうだったが、最後にじっと手塚の方を見た。
「これだけは言っとく。……不二の奴、なんだかんだ言っても手塚のこと、好きなんだからな」
それだけ言うと、大石に伴われるようにして帰っていった。
菊丸の手によって少し折り曲げられた資料の皺を伸ばしながら、手塚は溜息をついた。
明日の生徒総会さえ終われば、しばらく大きな生徒会の仕事はない。
資料はすでにそろっている。今日は細かな準備だけだ。いつもより早く帰ることも可能だろう。
やらなければならないことがある。
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昨日の事で思い出されるのは、何よりも不二の泣き顔だけだった。
中学で会ってから一年半になるが、泣き顔なんて一度も見たことが無かった。……というか、普段の微笑み以外の表情を、人に見せる事はあまりなかった。あって試合の時の鋭い表情だけだ。取り乱した顔なんて全くと言っていいほど見たことがない。
(……怒っている顔は、見たことがあったが)
始めて見たのは不二がテニス部に入部してきた時の話だ。
一年生の時、初めて不二がテニス部にやってきたのは、手塚を巡る一連の内部騒動が収まった頃だった。
部室に始めて不二がやってきたとき、その場には手塚しかいなかった。手塚が一番のりだったのだ。
体操服姿の不二は、今よりもだいぶ小柄で華奢だった。立派なラケットが身体に酷く不釣合いだったことを覚えている。
不二は手塚を見つけると、安心したように微笑んだ。
その顔が可憐だったので、だから、手塚は思わずこう答えたのだ。
女子テニス部は向こうだ、と。
それで不二はキレたようだった。
あの後、急に怒った不二に試合を申し込まれて、副部長の思いつきで済し崩しにワンセットマッチ戦う事になって、まあその時は結局手塚が勝ったのだけれども。
その後少しの間、手塚は自分が不二に嫌われているのだと思っていた。
いきなり性別を間違えられたら怒るだろう。あれで不二は体格や体力にコンプレックスがあるようだし。何より、入部して早々に負かされたのだ。不二のプライドの高さは知っているから、そっちの面でも怒らせたかもしれない。
とにかく、その誤解がとけるまで、しばしの時間がかかった。そこには当時の部長の尽力があった。
それから、不二とはだいぶ親しくなった。
結局、何を考えているのか解らない事の方が多かったのだけれども。
例えば、あとで、何故最初から入らなかったのか聞いた時のことだ。
不二はこう答えた。
――だって一年生、9月からしかレギュラーになれないんでしょ? 玉拾いばっかりやらされるぐらいならスクールで打ってた方がマシだよ。先輩のレベルも思ってたよりあんまり高くなさそうだし。
ぬけぬけと笑顔でそう答えたので、思わず怒鳴りつけた。
部活動である以上、そんな個人的な考えではやっていけない。先輩をなめきっているのも問題だ。そう手塚は力説したが、不二はさっぱりわからないような顔で聞き流していた。
だが、そんなことを言っていた彼が、どうして9月にならずに入ってきたのか、そこまで手塚は考えなかった。
どっちにしろ、不二は先輩からの厭味も笑顔で受け流し、誰に対しても当り障りなくテニス部に溶け込んでいった。入部早々に一悶着起こした自分とは対照的に。それだけ人当たりがよかったこともある。きっと人付き合いが上手いのだと手塚は少し羨ましく思っていた。一年生の時から部長に対して臆せず対等に話していることも手塚にとっては少し妬ましいぐらいだった。いつも笑顔でいられる彼は、自分とは違う人間なのだと、そう感じていた。
だが、それは間違いだったらしい。
彼の仮面の下は、全てを拒絶するような無表情だった。
いつも眉間に皺が寄っていると言われる自分とは逆の意味でポーカーフェイスなのだ。
そういう観点から考えると、不二と自分は同じなのだと言えるのかもしれない。
もしくは、普段から仏頂面の自分の方が感情的で、不二の方が感情が無いのかもしれない。
(……同じも、同じでないも、どっちでも無いか)
結局手塚と不二は別々の個人だ。
似ている部分や要素はあっても、同じものになれるはずがない。
解り合えることなんて、出来るはずが無い。
だから、相手のことはちゃんとよく見て、考えてやらなければならないのだ。
不二は、自分が不二のことを解っていないと責めた。
だから、解ってもらうためにこうするのだと。
そんなことを言われたって、同性同士であんなことをしたいと思う気持ちなんて手塚には到底理解できそうに無い。
ただ、解ったのは、不二が苦しそうなことだけだった。
そして自分は、そんな苦しそうな顔を不二にはさせたくないのだ。
生徒会の仕事も終わって、大石からテニス部の引継ぎも聞いて、家に帰った。
それからずっと自室で携帯片手に考えていた。
リダイヤル画面には、数日前にかけた不二の電話番号が残っていた。
何かをしなければならない、と今日一日ずっと考えていた。
それが具体的に何であるかは、なかなか思いつかなかったのだが。
だが昨日のことについて、そのままにしておくだけでは、お互いに結局何の解決にもならないだろう。
忘れたり無かった事に出来るようなことでは決して無い。
このまま済し崩しにしてほっておいていいはずがない。
覚悟を決めた。
ことさらゆっくりと指を動かしてリダイヤルボタンを押した。そのまま腕を持ち上げて耳に寄せる。
ボタンを押してから、電話が繋がるまでの状態が、奇妙なほど長く感じられた。
やがて、何かの機会音が鳴った。
一日ぶりに不二の声を聞くかと思うと、思わず心臓が跳ねた。
が、それは想像していた呼出音ではなかった。
『お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
(――!?)
目を見開いた。
何度もリピートされる機械的な音声が、頭の奥で鳴り響いた。
リダイヤルでしかも数日前はしっかり呼出音がなった番号だ。押し間違えたはずはない。
不二の電話番号を確認してから、もう一度リダイヤルするが、結果は同じだった。
実際に電話帳からかけてみても、電話番号を押して電話をかけても、結局変わらなかった。
聞こえるのは無機質な案内の声だけだった。
――消えてあげる。君の前から。
昨日、去り際に不二の言った言葉があざやかに脳裏に蘇った。
ただのその場だけのもの、言葉のあやだと思っていたが。
今更ながらに妙に現実味を帯びてきた。
(……まさか)
だいたい、不二の行動は、いつだって突拍子がない。表情はほとんど笑顔なのに、感情の起伏は部内でも1,2を争うレベルで激しい。その山あり谷ありの感情に従って、実際に行動を起こすからタチが悪い。……昨日の事だってそのいい一例だ。
天才ゆえのものなのだろうが、その行動が非常識であるのは間違いがない。
普通の思考回路では決して、理解不可能だ。
だからと言って、「消える」と言って、本当に自分の目の前から消える、なんて。
慌ててメールを送ってみたが結局無駄だった。携帯電話の番号を変えたぐらいだ。当然メールアドレスも変えたと考えてよいだろう。
家の電話の方にかけてみたが、やはり誰も出なかった。
(あの馬鹿者……!)
手塚の中に理不尽な怒りが込み上げてきた。
勝手に暴力的に自分のやりたいことだけやっておいて、こちらには何もさせないつもりか。
本当にあれで終わりにするつもりなのか。
最後の問いの答えだって、まだ、聞いていないのに。
不二がいったい何を考えているのか、手塚にはまださっぱり解っていないが。
今の不二に自分がやれる事がなんなのか、それだけははっきりと解っていた。
それなのに。
慌てて壁の時計を見る。
時刻は午後七時。
緊急の用事だと言えば、まだ許される時間だろう。
椅子が倒れるほど勢いよく立ち上がった。
「あら、国光、今から出かけるの……」
「すみません、少しランニングと練習に出かけます……!」
廊下ですれ違った母親の方は見ないでただそれだけ言って、家を飛び出した。
ラケットを入れた鞄を持って。
何が何でも、一刻も早く会わないといけないという衝動に突き動かされた。
そうでなければ。
この先、二度と不二と会えないと思った。
菊不二ですか私。新境地ですね。でも、メイツはラブリーキャッツ(謎)なので友情です。黄金は熟年夫婦無意識バカップル……
多分次で終わるかな……
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