気がついたときには、部室のベンチの上で横になっていた。
(……?)
いったい何があったのか、手塚にはしばらく思い出せなかった。何故自分は部室にいるのか。いったいどうしてこんな体勢になっているのか。ここで寝ていたというのか。
顔に手を当てると、眼鏡の感触がなかった。外しているのだろう。
指の間から見える視界と同様、頭にも靄がかかったようだった。記憶がはっきりしない。
まるで夢の中にいるようだった。
室内の電気はちゃんとついている。もう日も暮れたようだ。夜になると秋の気配は濃厚になり、妙に肌寒い。
天井から自分を照らしている電灯に、手塚はふと、違和感を感じた。
自分が覚えているのは、西日の差し込む部室内までだ。そのとき、灯りはついていなかった。
部室にはもう一人誰かがいたはずだった。暗い部室でその誰かと話していた。
待っていてもらったのは自分の方だった。
じゃあ何故、その誰かを部室で待たせていたのか。
それは……。
「……大丈夫?」
手塚の思考を遮るように声がかかった。
視界に人の顔が入ってくる。眼鏡が無くてぼやけてよく見えないが、穏やかな声と顔の印象でいったい誰なのか予想はついた。
「起きられる? 起きて歩ける?」
「うむ……」
言われたとおりに上半身を起こそうとすると、腰が妙に重かった。疲れているのだろうか。それはだがおかしい。今日は放課後の練習に参加した訳でもないのに。
腰だけではない。身体全体に奇妙な倦怠感がある。
それでも無理やり体を起こすと、鈍い痛みが下半身全体に走った。
「……っ……!」
痛みに耐え切れず、起き上がろうとした身体をすぐに横に戻した。
何だ今のは。
身体の外側ではなく、内側から響くような痛みだった。
「いきなりは辛いか……ゆっくり起きてみて」
混乱する頭に、再び淡々とした声がかかる。
だが、この痛みのせいで、失いかけていた記憶が蘇った。
自分が待たせていた相手は不二だった。この声の主も同じだ。
先ほどまで、夕闇の部室で、自分は不二と会っていたのだ。弟のことで悩んでいるという不二に「相談はあるか」と問い掛けたのだ。
そして。
「……!!」
その続きで脳に蘇ってきた記憶に、思わず目の前の張本人を鋭い瞳で睨みつけた。
まだ身体中に生々しくその記憶が残っている。唇にも肌にも腰にも。
全身が恐ろしさでぶるりと震えた。
こんな場所で、自分はいったい何をされた?
誰にも決して話せないようなことをされた。他人に自分の恥部を暴かれるのは何ともいえなかった。
胸がむかついて吐き気がする。身体の痛みだってそのせいだ。
全て彼のせいだった。
「お……前……!!」
怒りを込めた鋭い眼差しで不二の方を見上げた。
あんな行為、何と言い訳されたって耐えられるはずがない。
ただの強姦だ。性別に関してはこの際問題にはならない。相手の肉体的自由を奪って強引に事に及ぶと言う意味なら、結局悪質な暴力行為には変わりない。言葉にするのもおぞましい最低の行為だ。
いくら友人でも、……友人だからこそ、許せるはずがなかった。
手塚の寝ているベンチの脇に立っている不二は、ただ無表情にこちらを見下ろしていた。
その顔にいつもの微笑みは無い。
波一つ存在しない湖面のように、ひどく静かな様子だった。
「な、にを……!!」
その落ち着いた様子に沸沸と怒りを覚えた。
彼は何のトーンもない声で、淡々と語った。
「……君が気を失ってる間に、ちゃんといろいろと処理はしといたよ。部室も掃除したし。先生も気付いていない。多分君さえ言わなければ何があったかばれないと思うよ。まあ、ちょっと数日辛いかもしれないけど……」
不二はそう言って、座り込むと寝たままの手塚の顔に腕を寄せた。
何をされるのかと手塚は身を強張らせたが、不二はただ、外していた眼鏡を手塚にかけさせただけだった。
それだけの動作を行うと、再び立ち上がった。
視界がクリアになると、それに伴って状況判断力もどんどん高くなった。
「あのな……!」
「もちろん、僕だって口外しないよ。だってこんなことバレたら、お互いに大問題だろう? ここだけの秘密にしよう。誰にも一生話したりしない。それでいいよね?」
不二の事務的な口調に手塚は声を荒立てた。
自分が何をしたのか、何を言っているのか、解っているのか。あの行為はまぎれもなく犯罪なのだと。
そして、今度はそれを口止めしようと言うのか。しかも脅すようなやり方で。
そんなやり方を認めることは出来ない、と。
手塚はそう責めようとした。
だが喉まで出かかった言葉は、それ以上登っては来なかった。
眼鏡のせいですっきりした視界には、自分を見下ろしている不二の顔が映っていた。
熟練の職工による能面のような不二の顔に、両の目から涙が跡を作っていた。
そのことにようやく気付いたからだった。
「……ごめんね。怒ってるよね手塚。解ってるよ、謝ってもしかたないよね。あんなことする人間なんて決して許されないだろうし。秘密にしようって言うのもただの逃げだと思う。でも、こんなことが世間にバレたら、君が困るのは事実だろう? ……安心して。もう二度とこんなことしないから。それに僕はちゃんと罰を受けるよ」
「……」
手塚は息を呑んだ。
思えば、無表情の不二を見るのは、初めてだった。
思い返せば、行為の最中も不二は涙を流していた。その顔は鮮明に覚えていた。
だが、何故彼が泣く必要があるというのだろう。
泣きたいのはむしろ被害にあったこちらのはずだというのに。
「何があったか忘れた方がいいよ。……それは無理かな。ひどい事しちゃったもんね。……忘れるのが無理なら嫌いになってよ。だってふつう嫌いになるだろう? 強姦魔なんか。……その方が僕も楽だ。いっそ、嫌われてしまった方がもう何も悩まなくてすむ」
感情の篭っていない不二の声が室内に響く。
「……君、もう僕の顔なんか見たくないよね。だから消えてあげる。君の前から。このまま永遠に。だから安心していいよ」
「……ふ……じ」
喘ぎすぎて枯れた喉で手塚は問うた。
「なぜ……」
横になっている状態からゆっくりと手を伸ばす。
頬に触れて涙を確かめようとするように。
「お前は……、泣いているんだ?」
被害にあっているのは自分の方なのに。
どうして。
お前が、そんな顔をするのだ。
見上げて視線を合わすと、指の先に見える不二の顔は微かに笑った。そのように手塚には見えた。
それが始めて見た不二の仮面の下の素顔なのだと。
手塚は唐突にそう思った。
「終わるからだよ。これで全て」
不二は目を拭うとすっと立ち上がった。鞄を手に持つとドアの方へ向かう。
それを追いかけようと、手塚は痛みに耐えながら、身体をゆっくりと起こした。
恐る恐る、足をベンチから下ろして、脇に置いてあった靴を履く。
ゆっくり腰を上げると、なんとか立ち上がる事は可能だった。
「立てるんだったら大丈夫だよね。一人で帰れるよね」
なんとか不二を引きとめようとした。まだ、聞かなければならない事はたくさん残っている。すでに不二に対する怒りよりもむしろ疑問の方が脳内を駆け巡っていた。
だが、無理して身体を動かすと全身が痛い。
動作がゆっくりとしか出来ないので、不二を追うことは出来なかった。
「……ごめんね。もう二度と会わないから」
不二は手塚の方を振り向かなかった。
ドアを開けると、肌寒い夜風が部室の中に入ってきた。
外はもう真っ暗だった。
「…………お前は」
手塚は気力を振り絞って、帰ろうとする不二の背中に呼びかけた。
不二を責める権利が自分にはあるはずだった。こっちが被害者で向こうは加害者だ。
なのに何故、こんなことを言ってしまったのか。
手塚は自分でもよく解らなかった。
ただ、不二の背中を見ていると、何かを言わねばならない衝動に駆られた。
「……お前は、いったい俺にどうして欲しかったんだ」
「…………」
不二は手塚の方を振り向きもせず、何も言わないまま、闇の中に去って行った。
手塚は不二の背中を、見えなくなるまで、ただ呆然と見送る事しか出来なかった。
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昨日は重い身体を引きずってどうにか家に帰り、風呂にだけ入って、すぐに鉛のように眠ってしまった。
そして翌朝、起きるのは辛かったが、手塚はなんとかいつもどおりの朝練の時間に起床することが出来た。
そのまま、惰性だけで朝練へと向かった。
昨日あんなことがあった場所で再び不二と顔を合わすということを考えるとかなり気は重かった。だが、自分にはやるべきことがある。放課後の練習に出られないとなると、朝練を休む事は出来ない。だいたい、強姦されたと言っても自分は男だ。間違っても最悪の事態には至らない。犬に噛まれたといったら生易しすぎるかもしれないが、あくどいチンピラにからまれたぐらいのことだ。そう自分に無理やり言い聞かせて学校へ向かった。手塚はそう言う思考と類稀なる責任感の持ち主だった。
とは言うものの、部室のドアの前まで来て、思わず立ち止まった。
少し躊躇う。
しかしもうすぐ朝練が始まる時間だ。成るように成れ、と幾分投げやりな気持ちで部室に入った。
手塚が問題としている人物は、結局部室の中にはいなかった。
「……ああ、おはよう、手塚」
大石が普段通りの爽やかな笑顔で出迎えてくれた。すでにジャージに着替え終わり、朝連のメニューと今日一日の練習内容ををチェックしている。
「今日は遅いな。どうしたんだ」
すでに乾や河村も着替え終わっており、こちらを見ると挨拶代わりに軽く手を上げた。
いつもと全く変わらない部室の風景に、ある意味一瞬戸惑った。
手塚は思わずその場に立ち尽くした。
昨日の出来事がまるで夢のように思えた。
「……不二は」
無意識のうちに手塚がそう問うと、大石が答えた。
「まだ来てないよ」
「そうか……」
安心したようなそうでないような、なんとも表現できない気持ちが胸に広がる。
何も考える事が出来なくて、その場に立ち尽くした。
「……手塚? どうした? ……昨日、不二と何かあったのか? 部誌、不二に預けといたんだけど……」
ぼんやりしている自分を見かねたのか、大石が気遣って声をかけてきた。
だが、手塚はそんな大石を拒むように手を振った。寄って来る大石と目を合わさないまま、自分のロッカーに向かう。
「いや……何でもない。部誌はちゃんともらった」
「……そうか」
まだ訝しげにこちらを伺う大石の心配りはありがたかった。しかし、手塚自身、気持ちの整理がついていない。
だいたい、あんなことがあったなんて、他人に話せるはずがないのだ。例え友人の大石だとしても。
「大丈夫だ……」
手塚がそう言ったそのとき、部室のドアが音を立てて大きく開いた。
やっと来たのか、と思った手塚は、条件反射的にドアの方を伺った。
ドアの前に、普段の笑顔を浮かべている不二の姿を期待した。
いつもの朝練にいつものメンバー。
もしもここで彼がいつもどおりにやってくれれば、昨日のことなどなかったことに出来ると思った。
だがそこにいたのは、別の人物だった。
「はー! ごっめ〜ん寝坊した!! まだ大丈夫だよね!!??」
朝からテンションも高く、どたばたと慌しく部室に入ってきたのは菊丸だった。
手塚はそれを見て、ふいと首を反らした。
失望している自分の気持ちを誤魔化すために。
「まだ遅刻じゃないよね〜? って、手塚も制服じゃん。んじゃ大丈夫か〜」
「しかし朝練開始まで後4分36秒だ。急いで着替ろよ」
「ひえ〜!」
時計を見ながら言った正確な乾の時刻に、菊丸は忙しくロッカーに向かって服を脱ぎ始めた。
「……手塚も、急げよ」
「ああ」
乾の言葉に短く返答すると、手塚も着替えに取り掛かった。
「あれ? ……不二来てないの?」
不二のロッカーが空いていることを発見した菊丸が、同じく着替え途中の手塚に問い掛けてくる。
僅かに眉根を寄せながら答えた。
「そのようだな。お前も何も聞いていないのか」
現レギュラーの中でも、菊丸と不二はとくに仲がいい。一年生の時に隣のクラスだったためだ。体育などでは合同となり、そこで親交を深めたらしい。
そういうわけだから、少なくとも、菊丸は自分よりは不二のことをよく知っているはずだ。
「うんにゃ、何も……」
菊丸は少し首を傾げた。ズボンを脱ぎながら、顔だけ上げて器用に手塚を睨みつける。
「つーか、手塚、昨日不二のこと呼び出しただろ!! 手塚こそ何か知らないわけ?」
菊丸の鋭い読みに、一瞬詰まりかけたが、手塚はなんとか平静を保って答えた。
「……知らん」
「……何かひどい事してないよな?」
「…………」
それはむしろこっちがされた方であるのだが。だが、口に出すことではないと判断した。なので黙っておいた。
「なんで黙り込むかにゃー……そこで……」
睨みつけてくる菊丸の視線がますます険しくなる。だが手塚は無視して、ジャージの上を羽織った。
仲裁に入ってきたのは黄金ペアの片割れだった。
「おいおい、英二……」
「だって、昨日の今日で不二が練習休むなんて……これは絶対、手塚のせいとしか」
「あのな……そうだと限った訳じゃないだろう。体調悪かったんだから」
「……その話は後だ。今は練習を始めるぞ」
着替えを終えた手塚は、菊丸の追及から逃れるように、二人を無視してドアへと向かった。
「……え、手塚っ!? もう着替えたの!?」
「お前が余計な話をしてるからだ。さっさと着替えなければグラウンド10周だ」
「にゃー……!?」
「行くぞ大石」
「あ、うん……英二も早くこいよ」
「えー!? 大石までちょっとー!?」
ドアを出て行くときに、二人分の突き刺さるような視線感じた。
菊丸だけではない。大石も何か言いたげにしている事はわかっていた。昨日のことを知っている二人にして見れば、今日不二が休んだとなると、確かに自分に何か原因があるように見えるだろう。
だが、今は話せるような気分ではなかった。
:*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*:
だが、結局、その日一日、不二は学校にすら来なかった。
手塚の腰が心配でたまりません。まあヤオイはファンタジーだから……便利な言葉ですよね、ファンタジー……(逃)
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