廊下に伸びる影は長い。
夕暮れの校舎に、人の気配はほとんど無かった。
越前リョーマは夕日の差し込む廊下を一人歩いていた。テスト前のこの時期、部活が全て休みになるので生徒の大半はすぐに下校する。だが委員会の仕事まで休みになるわけではない。図書委員であるリョーマが残っていたのは委員の仕事のためであった。
完全下校時刻まであと十五分。いつもなら部活の片付けと帰り支度でどの部も騒がしい時間だが、今日はさすがに何の喧騒も聞こえてこない。
(もう誰もいないよな……)
図書館から玄関に向かうには、三年生の教室前の廊下を通らなくてはならない。ここ数日は部活がないので、いろんな意味でうるさいあの先輩たちとも顔を合わせていない。部活がないと所詮こんなものなのかもしれないが。
そんな事を考えながら歩いていた、その時。教室と廊下を仕切る窓越しに、人の姿が目に入った。窓際の一番後ろの席に座っているその姿にはよく見覚えがあった。
立ち止まって、クラスを確認すると、三年一組とある。
向こうはまだリョーマに気付いてはいない。机の上に広げられたプリントを一心不乱に見つめている。
そんな彼の気を引くよう、大きな音をたてて、勢いよくドアを開けた。
「何してんすか、部長」
突然開いたドアに、手塚はようやくこっちの方を向いた。やや目を見開いている。いつものポーカーフェイスがほんの少し、崩れている。どうも驚いたらしい。
「……越前? どうしたんだこんな時間まで」
「図書委員ッス。部長こそ、なんで」
「生徒会の仕事があってな……体育祭の原案だ」
答える手塚の顔は、既にいつもの硬い表情に戻っている。リョーマは手塚のもとまで近づいて机の上を見た。
手塚は椅子に座っているので、立っているリョーマの方が手塚を見下ろすような形になる。普段さんざん見下ろされているので、どこか少し愉快な気持ちになるリョーマだった。
「……もう、体育祭の準備ッスか?」
「生徒会はそういうものだ」
「大変ッスね……」
目の前のこの男がテニス部の部長だけでなく、生徒会長までやっているということを知った時……リョーマは驚くというよりむしろ納得した。はまり役過ぎる。どういった経緯で生徒会長になったかは去年のことなので一年生のリョーマはまったく知らないのだが。
「部長、自分で立候補したんすか? 生徒会長」
手塚は首を横に振った。
「誰も立候補者がいなかったから、先生に頼まれたんだ」
「断らなかったんすか?」
「……断れるものじゃないだろう」
手塚の口から溜息が漏れる。その様子を見て、どうも周りに担ぎ出されたらしいとリョーマは悟った。……彼の性格からしてそんなことではないかと思っていたが。
「割と周りに流されやすい方なんすね、部長って」
苦笑しながら言うリョーマに対し、手塚は眉根を寄せた。書類をやや手荒く一まとめにする。自覚はあるらしい。
「……以前同じ事を言われたことがある」
ばつが悪そうな手塚の顔は、普段リョーマが見ている「部長」としてのものとはまったく別のものであった。
そういえば。
この人と、テニス以外の話題をしたのはこれが始めてではないだろうか。
リョーマはふと、その事実に気付いた。そもそも二人きりで会話したことだってはじめてではないだろうか。
「……そろそろ帰らないんすか? もう下校時刻ですよ」
リョーマは窓の方によった。わずかながら残っていた生徒たちが正門へと向かっている様子が見える。
「このプリントを先生に渡したらな。お前も早く帰れ」
と。
窓の外を見ているリョーマの瞳に、ある人物の姿が目に入ってきた。門のそばの壁にもたれかかるようにして立っている男子生徒だ。色素の薄い髪の毛のおかげで遠目でも容易に判断できる。
(不二先輩?)
正門前の不二は不意に顔を動かした。その視線の先まではさすがにここからではわからない。しかし。
間違いなく、こっちを見ている。――三年一組の、手塚のいる教室を。
「……っ」
慌てて窓から遠のいた。
「どうした?」
「あの」
不二先輩と、帰るんですか?
だが、リョーマは喉まで出かかっていたその言葉を飲み込んだ。
手塚は知っているのだろうか? 不二があそこにいる事を。
――手塚を待っている事を。
ふと、以前見た光景が脳裏によぎる。
リョーマは一度目を閉じると、手塚の後ろにまわった。
「部長」
「……なんだ?」
「首筋の赤い痣、どうしたんですか?」
その言葉を聞いた瞬間、手塚は慌てて自分の首筋を手で隠した。
「……これはっ……!」
後ろを向いた顔は動揺のあまり赤くなっている。あの手塚でもこれほどうろたえることがあるのかと、リョーマのほうが驚いた。
だが、こんな反応を返すということは、リョーマの予想があたっていたという証拠でもある。
あまりの大当たりぶりに、思わず口元に笑みが浮かぶ。
「冗談ですよ」
「な……」
「安心していいっすよ、別に痣なんてありませんから」
手塚ははっとして自分で自分の口を抑えた。上手くのせられた事に気付いたらしい。
かまをかけてみただけだった。さすがにこんなに簡単に引っかかってくれるとは思わなかったが。この様子だとここ数日のうちに、首筋に痣がつくような事をやっているのだろう。
――そう、自分は
「先輩達」のプライベートなど何も知らないのだ。
「……くだらない冗談を言うな」
手塚は何時の間にかいつもの顔に戻っていた。だがどことなく声が震えているように聞こえる。このまま何事も無かったことにしたいらしい。その姿に、リョーマはわずかにいらだちを覚えた。
「相手は不二先輩、ですか?」
プリントをまとめ鞄に入れようとしていた手塚の手が止まった。
「四日前の部活後……部室でキスしてたっすよね?」
その日、リョーマはたまたま部室に忘れ物をして、それを取りに戻った時のことだった。中から言い争う声が聞こえてきたので、ドアを開ける前に窓から様子を伺ったのだ。
「……っ」
手塚は何も答えなかった。顔からは血の気が引いている。
「その様子だと、キスよりも進んでるみたいッスね」
「……何が、言いたいんだ?」
ようやく搾り出すように手塚は声を出した。だが否定していない、ということは事実なのだろう。
リョーマは唇を皮肉気にゆがめた。まだ椅子に座ったままの手塚に一歩近づく。
「別に誰かにばらしたり、脅したり、そーゆーことがしたいんじゃないッスよ。安心してください。それに俺、ゲイには慣れてますから……向こうじゃあたりまえだったし」
だけど、とリョーマは笑った。
「まさか部長がそっちの趣味の人だとは思いませんでしたけどね。どっちが上なんですか? 不二先輩? それともまさか部長……?」
リョーマの言葉を遮るように、手塚は声を荒げながら言った。
「! あれは……不二が、無理やり……!」
そんな取り乱した様子の手塚を見ているうちに、リョーマはますますイライラしてくる。理由はわからないが、何か酷く腹立たしい気持ちになる。
だがその気分とは裏腹に、口から滑り出す言葉だけはやけに冷静になっていく。
「無理やり……なんですか」
やや顔を下に向けた。
「だから、部長、流されやすいって言われるんッスよ」
リョーマはこちらを睨み付ける手塚の顎に手をやった。立っているリョーマと椅子に座っている手塚。顔の位置は申し分ない。
「無理やりされてることなら、別に俺がここでキスしたって構いませんよね?」
「……っ!」
顔を近づけていく。そのまま唇を触れ合わそうとする。
息遣いが肌で感じられるまで顔が近づいた。
その瞬間。
手塚は首を振ってリョーマの手を振り払った。椅子を倒すぐらいの勢いで立ち上がる。
「……いい加減にしろ!」
怒鳴り声が静かな校舎に木霊する。
その勢いにリョーマは数歩後ろに下がって尻餅をついた。肩で息をしている手塚を呆然と見上げる。
手塚の顔は、夕闇に紛れてよく見えなくなっていたが。
リョーマは、ひどく傷ついたような表情をしていると思った。
その顔が、手塚の答えだった。
リョーマはうつむいて、自嘲の笑みを浮かべた。
「なんだ、ちゃんと拒めるんじゃん……」
その言葉で、手塚は我に返ったのか、慌てたようにリョーマに片手を差し出した。
「あ……、すまん……大丈夫か?」
「平気ッス」
リョーマはその手を取らなかった。自力で立ち上がり制服のほこりを払う。手塚の顔を見ないまま、呟くように言った。
「……無理やりされるのがいやなら、今みたいに拒めばいいじゃないっすか」
「……っ」
手塚は目を見張った。口元に手をやる。
「不二先輩の時も」
言ってみてから、どうしようも無い事だと思った。
手塚本人に自覚は無いようだから。
不二の時は、手塚は拒まなかった。
実際に自分は見ている。
――なんだかんだ文句を言いつつ、結局拒む事はなかったのだ。
この事実が導き出す結論に、不意に泣きたくなった。
「越前……俺は」
ぼんやりした声で手塚が何かを言おうとした。
だが踵を返してリョーマは歩き出した。何も聞きたくなかった。
手塚は動かない。リョーマを止めもしない。呆然と同じ場所に立ち尽くしているようだった。
教室から出る際、手塚のほうを見ず、早口でこれだけ言っておいた。
「不二先輩、校門のところで待ってますよ。じゃ、テスト明けに部活で」
前のめりになりながら、急ぎ足で廊下を歩く。早くあの場所から離れたかった。
(結局、「無理やり」なんかじゃないんじゃないすか)
何時の間にか駆け足になっていた。廊下に上履きの音が五月蝿く響く。
そのまま裏門に向かった。
黄昏の色に染まった空にはすでに一番星が見える。手塚はようやく校舎から出てきた。正門前にいた人影がこちらに駆け寄ってくる。不二だ。
軽く微笑むと、不二は手塚の進行方向をふさぐように立ち止まった。
「遅かったね」
「……待ってたのか」
先ほどリョーマから聞いていたので、驚きはしなかった。
「僕も日直で遅くなったからね、一緒に帰ろうと思って」
二人は横に並んで歩き出した。
「さっき、教室で越前と話してたでしょ?」
その言葉を聞いて、手塚はあからさまに狼狽した。
「何、話してたの?」
不二は手塚の首の後ろに手を回した。無理やり顔を自分の側に引き寄せる。目を開いて間近で視線を合わせる。
思わず手塚は顔を背けようとした。だが不二は許さなかった。
「人に言えないようなこと?」
例えば、と、不二は手塚に口を近づけた。
「こんなこととか……」
「っ……」
ゆっくり唇を重ね合わせられる。唇をこじ開けられ内部に舌を差し込まれる。口腔内で互いの舌と唾液を絡めあう。
ふと、先ほどのリョーマの台詞が脳裏によみがえった。
――今みたいに拒めばいいじゃないっすか
慌てて、強引に不二から口と身体を引き離した。
顔が熱い。耳まで真っ赤になっている自覚がある。
うつむいて、手の甲を唇に当てたまま黙り込んだ。
不二はぽかんとした顔でそんな自分を見ている。
「……手塚?」
下を向いている自分の顔を不二は覗き込んでくる。だがどうしても目を合わせることが出来ず、手塚は顔をそらした。
目を合わせたら。
今の自分の気持ちを全て見抜かれそうで。
何故、自分は不二を拒まないのか。
その理由は。
「どうしたのさ?」
不二がたずねてくる。だが、何も答えないまま、手塚は歩き出した。
この気持ちを何と言えばいいのか。
手塚には、解らなかったのだ。
END
リョーマの片思い話……というか流されやすい手塚のお話……(爆)
一応不二塚です。リョ塚じゃないっす(苦)。
でも不二塚の人にもリョ塚の人にも怒られそう。すまん。
書きたかったんですよ……恋心自覚して胸キュン乙女な手塚……(そこか)
自分で書いてて背筋が寒くなりました。なら書くな。再びすまん。
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