at a rainy day

 昼前から降り出した雨は、放課後には本格的になっていた。
「…………」
 廊下に立っていた不二周助は、窓の外の濡れた運動場とその向こうにあるテニスコートをじっと見つめていた。そして小さく溜息をつく。この様子では今日の練習は休みだろう。朝はよく晴れていたというのに。
 不二はテニス部に所属している。一年ではあるがそのずば抜けたテニスセンスと天才的なテクニックの噂はすでに広まっている。つい最近行われた九月期校内ランキング戦では一年にしてレギュラーの座を勝ち取り、「天才」と呼ばれる有名人となっていた。

 だが、今年の青春学園テニス部の新入生には、不二を超える才能の持ち主がいる。
 今までほとんど負けを知らなかった不二が、始めて完敗を意識した相手だった。

 彼の仏頂面をふと思い浮かべた時、後ろから自分の名を呼ぶ声がした。
「おーい、不二〜」
 不二と同じくテニス部の一年生、大石だった。爽やかに微笑みながらこちらへ近づいてくる。そんな彼を見て、不二も余所行き用の笑顔を顔に浮かべた。
「やあ……どうしたの?」
 大石はこっちに近づいてきた。
「いい所で会ったよ……さっき、手塚と一緒に掲示板見てきたんだけど、今日の練習は雨で休みだって。他の皆にも伝えとこうと思って」
 大石が何気なく口に出した人物の名前に、不二の表情が一瞬強張った。だが、大石はそのことに気付かなかった。不二の顔はすぐにいつもの柔和な笑みに戻ったからだ。
「そう……」
「うん。残念だね。手塚ともそう話していたんだ。今日は一年も試合させてもらえるはずだったのにな……」
 大石は再び、無邪気にその名前を出した。仲の良さを不二に見せ付けるかのように。ほんの少し前まで大石は彼と一緒に居たらしい。この二人はクラスが隣同士なので体育や移動教室で同じになることが多い。廊下で出会うことも簡単だろう。不二はどうかといえば、彼とはクラスが離れているので授業が一緒になることも無ければ、廊下ですれ違うこともほとんどない。会う機会と言えば部活ぐらいしかないのだ。
 大石には悪気が無い辺りがまた不二を苛立たせた。
「手塚……と、いっしょだったの?」
「うん、さっきまでは」
「じゃあ手塚は?」
「用事があるって、部室に」
「そう……」
 雨で部活は休みになったというのに、いったい何の用事だろう。
「連絡ありがとう、大石」
「いや、当然のことをしたまでだよ。にしても、やっぱり不二も手塚と同じぐらいテニスが好きなんだね」
「……え?」
 思いがけないことを言われて、不二は目を見開いた。まじまじと大石を見る。
「だって練習が無いって聞いた時、凄く残念そうな顔してたよ。手塚もかなり寂しそうだったけど……」
「……そう?」
「やっぱり好きだからこそ上手くなるのかな……あ、エージだ……じゃあね」
「うん、また明日」
 廊下の先に他の一年部員を見つけた大石は、そう言うと不二のもとから去っていった。残された不二は僅かに口元をゆがめて微笑んだ。……まったく、大石は洞察力に優れているのかいないのか。
 練習が出来なくことを残念がっている訳ではない。テニス馬鹿の彼とは違う。
 彼に会える場所が無くなった事が残念なだけだ。
 しかし、これで今日も彼に会うきっかけが出来た。
 不二は再び窓の外に目をやると、おもむろにテニスコートに向かって歩き出した。

 手塚国光。
 それが、「天才」不二が初めて才能の差を思い知った相手であり、
 思い人の名前だった。

 校舎からテニス部部室まで、走って一分足らず。この雨では、それだけの間でもかなり濡れてしまうだろう。だが、不二は心を決めて雨の中に駆け出した。
「……ふー……」
 案の定、部室の入り口に着いた頃には全身が濡れてしまっていた。学生服の水滴を軽くはらい、濡れた額を拭ってから、ドアノブに手をかける。
 鍵は開いている。中に人がいる証拠だ。
 軽く挨拶をしながらドアを開けると、中には、予想通りの人物がいた。
「……不二、か?」
 机に向かい、部誌を広げていた手塚は、驚いた様子でこっちを見た。
「あれ、手塚? どうしたの? 今日練習休みでしょう?」
 不二は驚いたふりを装って返答した。
「俺は、用事があってな……お前こそどうしたんだ?」
「うん、ちょっと忘れ物しちゃってさ……傘をこっちに置き忘れたみたいで」

 嘘だ。
 折りたたみの傘はちゃんと鞄の中に入っている。
 傘の話は、手塚に会う為の口実だった。

「そうか……」
 手塚は窓の外に目をやった。庇から大粒の雨垂れが小さな滝のように流れている。
「この雨だからな」
「うん。見て、ちょっと外に出ただけでびしょびしょ……突然降ってくるんだもんね。参っちゃうよ」
「全くだ」
 不二は持参のタオルを取り出すと、濡れた学生服を拭い始めた。作業の手を止めずに手塚の方を伺う。よく見ると、手塚の髪も湿り気を帯びている。学生服も濡れているようだった。不二と同じように。
「……手塚もここまで走ってきたの? 傘は?」
「……いや、忘れた」
「あれ? そうなの?」
 思いがけない答えだった。真面目な彼の事だ、置き傘の一本ぐらい常備しているのではないかと思っていたのだが。
「……朝は良く晴れていたからな。考えもしなかった」
「へえ……君でもそんなことあるんだ」
「母親には持っていくよう言われてたんだが……」
 手塚は溜息をついた。かなり困っているようだった。彼の意外な一面を見れた気がした不二は、思わず口元を綻ばせた。
 そんな不二を見た手塚は、ますます眉間に皺を寄せた。
「……笑うほど面白いか?」
「笑ってないよ」
 不二は否定したが、手塚は追及してきた。
「顔が笑っていた」
「この顔はもとからだよ」
「……」
 口では勝てない、と判断したのか、手塚は黙り込んで部誌に目を向けた。不二はロッカーによると傘を捜すふりをし始めた。背中越しに手塚に問い掛ける。
「仕事って、何やってるの?」
「部誌の整理」
「……一年の君が?」
「部長に頼まれたんだ」
 手塚は僅かに誇らしげなニュアンスでそう言った。
 不二は手を止めた。手塚の方を向く。

 手塚の言う「部長」とは三年生・大和の事だ。丸いサングラスと無精髭が特徴のテニス部の部長だ。飄々としていてとりつくしまが無くて浮世離れしていて、見た目に違わない立派な変人だと不二は認識している。不二にとっては初対面の時からどうも好きになれない人物だった。
 だが、どういう訳か、手塚は彼のことを尊敬している……それはもう、盲目的なまでに。大和のやることなら例え黒でも白だと言うぐらいの勢いで。

 それが不二には面白くない。

 手塚が彼の事を語るときの嬉しそうな表情に、苛立ちを感じる。それが嫉妬というものだと気付いてはいるが、止める事は出来なかった。
 思わず刺々しい口調になってしまう。
「じゃあ君、部長に仕事押し付けられたんだ。ひどいよね」
「……そうじゃない、俺から引き受けたんだ。部長、忙しそうだったから」
 不二はますますむっとした。
 窓の外の雨は止む気配がない。むしろどんどん酷くなっているようだ。屋根を打つ雨音が激しくなってくる。
「ほっとけばいいじゃない、あの人の仕事なんでしょ? 今日はもう帰ったほうが」
「そういう訳にはいかない」
「……どうして」
「部長は俺を信用して仕事を任せてくれたんだ」
 雨音に掻き消されないように手塚は声を大きくした。そんな手塚の様子を見ながら、不二は皮肉気に呟いた。
「……君さ、あの人にいいように扱き使われてるだけじゃないの?」
「あのな」
「だって、いくら君が後の部長候補だからって言っても、今の部長の仕事までやらせる事ないじゃない。利用されてるだけなんだよ」
「不二、止めろ」
 窘めるように言う手塚の言葉も、不二には届かなかった。
「……君よりテニス弱いくせに、君に命令するなんて」
「不二!」
 手塚が急に椅子から立ち上がったので、不二は身を竦ませた。
「いくら何でも、言っていい事と悪い事があるだろう」
 どうやら手塚を怒らせたようだった。不二はわずかにうろたえた。

 ……こんなことが言いたかったわけじゃないのに。

 だが、今更止められない。必至で虚勢を張りながら言葉を紡ぐ。
「……だって、事実じゃない。君の方がずっと強いのに……」
「そういう問題じゃない。俺は部長の人柄を尊敬してる」
「でも」

「……どうして、お前は、部長のことをそんな風に言うんだ?」

 どしゃぶりの雨の音だけが聴覚を支配する。

「だって」

 不二の呟いた言葉は雨音にかき消された。

「……不二」
 下を向いた不二に、手塚は訝しげな顔を向けた。
「すまん、聞こえなかったが……」

 その時、部室のドアが開く音がして、二人はそちらの方に顔を向けた。
「いやあ、参りましたねえ……お待たせしました」
 ドアを開けて入ってきた人物は、二人の様子を見て、一瞬動きを止めた。
「おや、お取り込み中……でしたか?」
「……部長」
 手塚が安心したように名前を呼ぶ。
 一方で、どうして最悪のタイミングで入ってくるのだ、と不二はその男……大和を睨み付けた。

 大和は荷物を机の上に置くと、広げられた部誌を見て、手塚に労いの声をかけた。
「すいませんね、仕事手伝わせちゃって」
「いえ……」
「どうもご苦労様でした」
 わずかに上ずった声で手塚は返事をした。緊張しているのだと不二には解った。むっとしながら自分に背中を向けている大和を睨んでいると、その大和がくるりと振り向いた。
 心の中を見透かされたような気がして、不二は一瞬身体を強張らせた。年がら年中サングラス着用の大和の表情は読めない。
 だが、大和の言った事は、不二の考えていたものとは別だった。
「不二君も手伝ってくれたんですか?」
 目に力を込めたまま答える。
「……いいえ。傘を取りに来ただけですから」
「あ、そうなんですか」
「もう帰りますんで」
 不二は鞄を肩に担いだ。刺々しい声で大和に問いかける。
「……部長のあなたが、一年生に仕事押し付けたりしていいんですか?」
「不二、だからそれは……」
 手塚が何か言おうとしたが、不二は聞かずに言葉を続けた。
「部活も休みになったのに、手塚をこき使ったりして。先輩として恥ずかしくないんですか?」
 その言葉を聞いて、大和はほんの少しだけ困ったような顔をした。ポリポリと頭をかく。
「うーん、そういうつもりじゃなかったんですけどね……」
「……気にしないでください、部長」
 手塚は不二の方に鋭い視線をやった。きつい口調で不二を責める。
「不二! お前、いい加減に……」
「……」
 大和を庇うようにする手塚から不二は目を逸らした。これ以上見ているのが辛かった。
「……失礼します」
 それだけ言うと、部室を後にした。わざと大きな音をたてて扉を開けると、どしゃぶりの雨の中へと傘も差さずに駆け出した。
 一刻も早くその場所から離れたかった。

 手塚は、呆然としながら不二の去った扉の外を見ていた。
「……不二……」
 独り言のように呟く。不二が大和のことを責める理由が手塚にはわからない。今日の事だって大和が自分に押し付けたわけではない。手塚が自分から申し出たことだ。そう言っているのに不二は聞かなかった。大和に突っ掛かるだけ突っ掛かって帰っていってしまった。
 あんな顔で。
 自分から目を逸らした時の不二の顔が脳裏に浮かぶ。何か言いたいことを必死で我慢しているようった。
「何考えてるんだ、あいつは……」
 その問いかけに答える形で、大和が口を開いた。
「う〜ん、そうですねえ……不二君は……」
 そこで大和は少し間をおいた。何を言おうか考え込んでいるようだった。
「……不二君は、手塚君のこと好きなんだと思いますよ?」
「……好き?」
 思いがけない答えに手塚は鸚鵡返しで答えた。大和は首を縦に振った。
「そう、好きなんです。だから手塚君のこと心配してるんですよ」
「心配……」
「手塚君は真面目だから、頼まれた仕事は断らないでしょう? 誰の仕事でも自分で引き受けてたら手塚君が大変になっちゃいますよ。だから、心配してるんです、きっと」
 手塚は大和の説明が正しいように思った。不二は自分のことを心配してくれていたのだ、多分。
 だとすると、自分が責めたせいで、不二を傷つけたかもしれない。
「…………」
「……追ってあげたらどうですか?」
 手塚の心境を読んだように大和は提案した。タイミングのよさに驚いた手塚が大和の方を向くと、大和は折りたたみ傘を一本、手塚の手の中に投げた。
「不二君、傘を忘れていったみたいですから。僕の傘貸してあげますよ。二人で一本ですけどね。仕事はもう大丈夫ですから」
 不二が傘も差さずに外に出て行ったことを手塚は思い出した。今頃きっとびしょ濡れだろう。
 手塚は傘をぐっと握ると、もう片方の手で鞄を掴んだ。
「ありがとうございます……では、失礼します」
 大和に対して一礼すると、手塚も雨の中へと駆け出していった。

 校門付近まで一気に走りきったところで、不二は立ち止まった。
 傘を差し忘れていた事にようやく気づいた。髪の毛がびしょびしょで額や頬に雫がつたっている。学生服の袖で顔を拭っても拭っても止まるところなく流れてくる。
 なぜか口元が綻んだ。馬鹿馬鹿しくて思わず笑いがこみ上げてきた。
 自分でも愚かなことをしてると思う。手塚が部長のことを尊敬しているのは、自分にはどうしようもないことだ。嫉妬しても惨めなだけだ。ましてや大和を責めたって何の意味もない。今みたいに手塚を怒らせて終わるだけだ。
 そんなことは解っていたのに、止めることは出来なかった。
 後悔の念だけが思考を支配する。
 傘は手元にあるが差そうという気にはならなかった。ここまで濡れたらあとは同じだ。普段なら徒歩で帰るのだが、バスに乗れば少しはマシだろう。
 とぼとぼとバス停に向かって歩きながら考える。

(……明日、手塚に謝ろう)

 そう思っても、どういう顔であえばいいか解らない。ひょっとしたらまだ怒っているかもしれない。気持ちばかりが重くなる。口をきいてくれないかもしれない。

「……不二!」

 もう、こんな風に、名前を呼んでもくれないかもしれない。

「……待て、不二!! 止まれ!!」
「……!?」
 先ほどから聞こえてくるその声が、空耳ではない事に不二はようやく気づいた。慌てて後ろを振り向く。
 大雨の中を、手塚は傘も差さずに一直線にこちらへ駆けてきた。
「……手塚?」
 目を見開いて不二は手塚を見た。今の状況がいまいち理解できていなかった。
 どうして手塚がここにいるのだろう。自分のことを怒っているのではないのか。
 手塚は不二の正面まで来ると、握ったまま、開いてもいない折りたたみ傘を不二に差し出した。
「……傘、忘れたままだったろう」
「……? でもこれ、僕のじゃ……」
 そもそも、傘を忘れた事自体が方便だ。部室から傘を使わずに飛び出していったので誤解されたらしいが。
「部長が貸してくれたんだ。一緒に帰るぞ」
 手塚はそういうと、折り畳み傘を開き始めた。不二はぼんやりとその様子を見つめていた。
「怒ってたんじゃ……僕のこと……」
 大和に対して理不尽にひどいことを言った。その事を手塚は怒っているのではないのか。
 だが手塚は不二に対して、すまなかったと頭を下げた。
「……お前、俺のことを心配してああ言ってくれたんだろう」
「え?」
「なのに責めて悪かった」
「……怒ってないの?」
「俺にも責任はある」
 手塚の謝罪はどこか少しずれている。それでも、不二は手塚が怒っていないことに安堵した。
「こっちこそ、ごめんね。きつい言い方しちゃって」
 安心したら、謝罪の言葉も素直に口から出た。
 折りたたみ傘を開くと、手塚はそれを不二の方に差し出した。
「少し狭いが……さ、帰るぞ」
 不二はその傘の中に入っていった。

 部室に残った大和は、開かれた部誌を指で玩んでいた。
 脳裏に一年生二人の顔を思い浮かべる。二人の天才。将来、青学を……そして日本テニス界を背負って立つ可能性もある逸材だ。
 だが、天才だって全てに上手くいくわけではないらしい。
 不二が手塚のことを好いていることは自分に対する態度からありありと解る。手塚が懐いている自分が気に食わないのだろうことも。
 ……問題は、当の手塚がその辺りの感情にはとことん疎いことだ。不二の気苦労を思って、大和は苦笑した。
「ま……貸し一つ、ってところですかね。不二君」
 椅子に凭れ掛かりながら、大和は目を閉じた。
「お互い、苦労しますねえ……」

「……傘、最初から、差して来ればよかったのに」
 自分と同じぐらい濡れている手塚を見ながら、不二はそう言った。これでは傘の意味もあまり無い。
「傘を持ったままじゃ速く走れないからな。お前に追いつけないかと思った」
 そのためにびしょ濡れになってまで自分を追いかけてきてくれたらしい。その心遣いが嬉しかった。
 ちょっとだけ、手塚の方に身体を寄せてみる。肩と肩が当たる。
「……狭いか?」
「少しだけ」
 手塚はそれ以上何も言わなかった。身体を避けることもしなかった。
「明日は晴れるといいね」
「そうだな」
 身体を寄せ合ったまま、二人は家路を急いだ。


 たまにはこんなのも……中一設定なのでピュアまっしぐらな感じ……

 補足説明。
 互いの呼び方ですが……これは一年の秋(九月)設定なんでぼちぼち君付けも止めたんじゃないかなーとか。
 つーか秋なら大和引退してるじゃん。ぐふ。
 と自分でも痛いほど解ってるのですが……その辺見逃してください。
 部長職の引継ぎとかいろいろあるんだよ……多分……きっと……(弱気)

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