そんなに綺麗な気持ちでいられるほど僕は子供でもないし。
かと言って笑顔で割り切れるほど大人でもないのだ。
「promise the moon」 ACT 1
◆
「じゃあ」
大和はふっと思いついたことを軽いノリで口にした。
ほんの軽い冗談のつもりだった。
彼があまりにもしつこかったから、少し意地悪をしたくなったのだ。
「不二君が僕に抱かれてくれたら……、ということでどうでしょう?」
「!」
「君の言う事をちゃんと聞いてあげます。代償があれば君も納得するでしょう? だから、取引です……僕に抱かれてください」
西日の逆光で表情はよくわからないが、目の前の一年生は僅かに全身を強張らせた。微かに震える手をぐっと握り締めている。
なんとか平静を努めようとしているようだが、心のうちの動揺はこちらには手にとるように解る。
だがさらに追い討ちを掛けた。
「解ってない、ってことはありませんよねえ? 君とHしたい、って言ってるんです。もちろん、君が女役でね。それぐらいの代償じゃなきゃ信じないでしょう?」
「…………」
不二の手の震えは全身に回っている。無言で、決して顔を上げようとはしなかった。
そんな後輩を見据えながら、優しい口調でわざと煽るような言葉を囁く。
「男同士のセックスが何処を使うか、ちゃんと知ってますか? お尻の穴に入れるんですよ。女の人のみたいにちゃんと濡れるわけじゃありませんから、しっかり慣らさないと辛いらしいですけど。でも、ちゃんと感じるように出来てるんですよ」
そんな条件は決して受け入れられないだろうということは、解っている。「抱かれろ」と言っているのだ。恥ずかしい場所を広げて女のようにに自分を受け入れろ、と。
その上であえてこんな条件を出した。
批難と軽蔑の視線。
浴びせられる罵声。
それらを、自分は期待した。
しかし。
「……構いませんよ」
「……え?」
俯いたまま発せられたその言葉に、我が耳を疑った。
今、彼はいったい何と答えた?
「そんな条件でいいのなら、構いませんって言ったんです」
ゆっくりと顔を上げた彼は、明らかに嘲りの笑みを浮かべて、そう答えたのだった。
◆
テスト期間中、放課後の図書室に、人影はほとんど無かった。
午前中にテストは終わっているので、校内に生徒はほとんど残っていないはずだ。部活も休みなので学校に残る理由がない。皆明日のテストに備えるために家路についている。
そんな日でも図書室は少しの間開いている。もっとも、訪れる生徒はごくごく少数だが、自習に利用する者もいるので開けない訳にはいかない。
そして、図書室が空いているのならば、カウンター当番用の図書委員も必要である。
大和がその日、図書室のカウンターに座っていたのはそう言う理由からだった。
壁の時計は、すでに二時をまわっていた。
そのことに気づいた大和は、慌てて読んでいた『石の目』を閉じた。本に夢中になっていてうっかり閉室時間を過ぎていることに気がつかなかった。司書教諭が今日に限っては職員会議で図書室にいないことが災いした。とにかく閉室準備をして残っている生徒を追い出して、とっとと帰らなくてはならない。見回りのために、大和は椅子から立ち上がった。
室内の生徒は閉室時間までには帰ってしまったようだった。ただ、自習席の一番端に、一人だけ生徒がいた。うつ伏せになっている。自習の生徒だろうが、寝てしまっている。追い出すためにゆっくりとその席に近づいた。
「すいません、もう閉室です……よ……」
その生徒が誰であるか気付いて、大和は途中で言葉を止めた。よく知っている顔だった。
「手塚君……」
テニス部の一年生、手塚国光だった。眼鏡を外し、社会のノートを広げたまま机に突っ伏している。
穏やかなその寝顔に、大和はしばらくぼんやりと見入っていた。うたた寝をする彼なんて、おそらく、めったに見ることができるものではない。
いつも外での練習をしている割に、手塚のうなじは余り日に焼けておらず驚くほど白い。日光に透けた髪が僅かに茶がかっていることにしろ、色素の薄い体質らしい。成長期に差し掛かったばかりの身体はしなやかな若枝のようだった。
不意に白い首筋に手を伸ばしかけたところで、手塚が唸るような声を上げた。
驚いて手を引っ込めたが、手塚は起きなかった。気がついた訳ではないようだった。
かすかに安堵の吐息をつく。
だが、安らかな寝顔を見ているうちに、何か胸の奥に湧き上がってくる感情があった。
「…………」
窓から入ってくる風が、手塚の髪を少しだけ揺らす。
自分の胸の奥にあるこの気持ちは、穏やかな愛情ではなくて。
むしろ、愛情よりは程遠いシロモノで。
……だからそれは、絶対に彼に気付かれてはならないのだ、と。
自分に対してそう言い聞かせる。
だから。
大和は、手塚の唇に、そっと、自分のそれを触れさせた。
と、その瞬間。
バタン――と、扉が閉まる音が図書室中に響いた。
「――!?」
大和は驚いて身を起こすと、扉の方を伺った。
廊下を駆けて行く音が聞こえる。
まさか、見られていた――?
扉の位置から二人の居る机まではいくつか棚や机があるので、はっきりと様子を伺うことは出来ない。だが、立っている場所によっては上手く障害物を避けて目に入るはずだ。
誰もいない、と思って油断していた。
あの瞬間を見ていなかったとしたら問題はないが、ならばドアを閉めて逃げるように出て行くマネはしないだろう。
まずい事になった、と大和は口を抑えた。
「ん……」
先ほどの物音で手塚も目を覚ましたらしい。上半身をゆっくり起こすと、外しておいた眼鏡をかける。横に立っている大和の顔を寝ぼけ眼で伺った。
「……部長……?」
「あ、ああ、起きましたか手塚君」
大和の顔を見た瞬間、手塚の目の焦点が合った。自分が寝ていたことに気がついたのか、突然頬を染めて下を向いた。寝てしまったことが恥ずかしいらしい。
「あ……す、すみません! ついうたた寝を……」
「……いえ、かまいませんよ」
この様子だと手塚は先ほどの事に気付いてはいないらしい。大和は少し安堵しながら、なおも扉のほうを見ていた。
となると問題は先ほど扉を閉めた人間だ。
「……どうかしたんですか、部長」
大和の真剣な表情を見た手塚が不安げに問い掛ける。大和は手塚を安心させるために何でもない、と微笑んだ。
「さきほど、扉を開けてすぐに帰っちゃった人が居たので……気になって」
あ、と、手塚は何かに気がついたように声を上げた。慌てて壁の時計を確認すると、困ったように眉を寄せる。
「不二だ……」
「不二君、ですか?」
大和も良く知っている名前だった。手塚と同じ一年生のテニス部員だ。
「2時に玄関で待ち合わせしてたんです。社会で教えて欲しいところがあるって……でもあいつ、今日委員会でちょっと遅れるから、2時までここで勉強してるつもりだったんです、けど……」
時計はすでに2時15分を指している。うっかり寝過ごしたらしい。
「……じゃあ、不二君だったにしろどっちにしろ、待たせてますね」
手塚は荷物をまとめて立ち上がった。
「すみません。帰ります」
「ええ、もう閉館なので。気をつけてくださいね」
手塚はぺこりと頭を下げると、鞄を肩から掛けて図書室から出て行った。大和はそれを笑顔で見送った。
ばたばたと急いで去っていく手塚を見送ると、大和は一つ溜息をついた。
目撃者はどうも、不二らしい。
(まずいところを……)
いや、と思い直す。
考えようによっては、逆かもしれない。
◆
秋が始まり、もう日が落ちるのもかなり早くなった。
西日の差し込む部室にいるのは二人きりだった。もっとも今はテスト期間中で部活は禁止されている。
大和は部室の入り口の鍵を閉めると、無言で机の前に立っている不二の方を振り向いた。
「さあ、ここなら、誰も来ませんよ」
「……引退したくせに、何故鍵を持ってるんです」
「合鍵なんですよ。皆さんには黙っててくださいね」
部室の鍵を持っているのは部長と副部長、そして顧問だけなのだが、元部長の特権を使ってこっそり合鍵を作っておいた。それがこんな形で役に立つとは思わなかった。
話がある、と自分を呼び出してきたのは不二だった。
だいたい、その話の内容は解っていたのだけど。
間違いなく昨日の図書館での事だ。
不二はしばらく無言で睨みつけていたが、おもむろに口を開いた。
「昨日……手塚にキス、してましたよね」
冷たい棘の混じった声。
やはり、あのときの目撃者は不二だったのだ。
サングラスの奥の瞳をわずかに細める。
「見られてましたか。それは参りました」
普段と変わらない口調で相手に対して微笑む。そんなこと、本当はどうでもいいのだと言わんとばかりに。
「答えてください。手塚のこと、どう思ってるんですか」
「……大事な可愛い後輩ですよ」
「大事な後輩に、あんなことするんですか、貴方は」
予想通り、不二は食い下がってきた。
手塚に対して特別な感情を抱いている彼が、あんなシーンを見たら、間違いなく自分を責めにくるだろう。
そのことは昨日の段階ですぐに予測できた。
案の定、彼はやってきた。テスト終了後、三年の自分の教室にやってきて、「お話があります」と。
時間を遅くしたのは、人が絶対にいない時間の方が都合がよかったからだ。
大和の思惑通りに。
(……普段は冷静なのに、手塚君のことになると、周りが見えなくなってるんですよねえ……)
それが恋のなせる技かもしれない。
自分には縁のない感情だろうけれども。
とにかく、彼とは一度、話しておきたいと思っていた。
「部活のためを思うなら、手塚にあんな風に手を出すのは止めてください。それでなくても手塚の立場は危ういんです」
きっぱりと言う不二に、大和は口元だけで微笑んだ。
「もう僕引退しましたから。テニス部とは関係ありません」
「……貴方がそんなことを言うんですか?」
三年生が引退した現在でも元部長の影響力は大きい。現在の部長も、一年にして副部長になった手塚も、大和の影響をまともに受けているからなおさらだ。
「知ってますよ、危険だってことは」
二年部員の中に一年生を副部長に任命した事に対する反発が全くないとは言い切れない。さらに今年の九月のレギュラー戦では一年生が二人もレギュラーの座を得ていた。手塚と不二だ。二年部員の一部は自分たちが選ばれなくてだいぶぴりぴりしているようだ。それを抑えているのは現部長・副部長コンビの手腕とそのバックにいる大和、そして手塚の圧倒的な実力だった。
今は沈静しているが、しかし、押さえつけられているものはいつ爆発するかわからない。
「あんなところ、下手に誰かに見られていたら、手塚が……」
「そうですね。同性愛者呼ばわりされて偏見と差別で困りますね。下手したらこの学校に居られないかもしれない」
あっさりした大和に、不二は唇を噛み締めた。
「解っているなら……」
「誰もいないと思ってたんですよ。見つかったのが君で本当によかった」
その言葉に揶揄する響きを感じたのか、不二の視線が下を向いた。
「だいたい、君が『部活のため』とか、そういう言い方する権利はないでしょう?」
意地の悪い言い方だとは解っていたが、それは向こうだって同じだろう。
「不二君だって、手塚君を誰かに取られたくない一心だけのくせに」
図星を突かれた不二は、わずかに息を呑んだ。
自分にことさら突っかかってくるのは、ただの嫉妬なのだと、不二自身も理解しているのだ。それを感情的に表すのがみっともないことだって解っているはずだ。
真実だからこそ、指摘されると腹が立つ。
わざと不二の感情を煽り立てる言い方を大和はした。
彼がどう答えるのか、興味があったからだ。
不二はしばらくぐっと我慢するかのように黙っていたが、やがてかすかに声を発した。
震える唇がゆっくりと、一文字一文字確認しながら言葉を紡ぐ。
「貴方だって、本当は……手塚のこと」
奥歯を噛み締める音が大和の元にまで聞こえた。
「憎んで……」
不二の吐き出した言葉を聞いた大和は、ふっと全身の力を抜いた。
ああ、やっぱり。
――彼は。
「……どうして、そう思ったんですか」
突然そう問い返されて、不二がたじろいだ。瞳に動揺の色が見える。何故そんな事をいってしまったのか自分でもよく解っていないようだ。激情のままに口走ってしまったらしい。
「それ、は……」
「答えてください。不二君が、どうして、そう思ったのか」
僅かに下を向く。答えがなかなか出てこないようだった。
「……手塚が」
小さな声で、搾り出すように不二は言葉を出した。
「貴方よりも、強いか……ら……」
「……それは事実です。だから僕が手塚君を嫌いだっていうのもね」
何のためらいもなく、大和はその事実を認めた。不二は驚いたように顔を上げた。
「でもそれだと問いの答えになってませんよ。言ったでしょう? 不二君自身がどうして僕が手塚君のことが嫌いだって思ったのか、答えてください。さあ」
湧き上がってくる嗜虐的な喜びは、わざと隠さなかった。
幼い子供にするように顔を近づけると、不二はわずかに頬を赤くした。視線を反らして下にやる。
サングラスの奥から見据える。
「解らないんですか?」
不二は答えなかった。ただ視線を合わさないようにずっと下を向いている。
「なら教えてあげましょうか、僕が」
耳元でゆっくりと囁く。
優しく、ことさらに丁寧な口調で、真実を教える。
「……君と僕は、よく似ているからですよ」
「……!」
その言葉に、不二の顔が強張った。
「だから、手塚君に対する気持ちも、似ているんです」
「……ッ……」
「同じなんですよ。だから、君は僕の真意を理解できた」
不二は身を硬くしたまま、しばらく動かなかった。
反論しない、という事は、肯定したも同じだった。
そんな後輩を、大和はしばらく同じように見詰めていた。
「君も、本当は手塚君のことが嫌いなんです。嫌いで嫌いで仕方ないのを、愛情だと勘違いしているだけで」
「…………それは」
何か言おうとした不二を遮るように、大和は話し始めた。
「僕は一応これでも青学の部長でした。三年間厳しい練習もこなしてきたし、そこそこの成績だって残してます。それなりの自負だってプライドだって持ってます。――なのに、まさか入ってきたばかりの新入生に、負けるとは思いませんでしたよ」
手塚の入部直後の話だった。あの時から手塚は圧倒的な実力を見せ付けていた。そのせいで騒動があったりもしたのだが、不二は当時はまだ入部していなかったので詳しくは知らないだろう。
だが、仮にも名門と呼ばれた青学テニス部が、ただ一人の一年に敵わなかったのはどうしようもない事実だった。しかも、利き手ではない右手で。
自尊心を傷付けられた痛みはあまりにも酷くてもうとっくに麻痺してしまった。だから手塚の前でも笑っていられる。笑って彼を大切にしているふりができる。
「いい気になっていても所詮僕は凡人だって彼には思い知らされました。どうがんばったって超えられない才能の壁もね。僕には彼の見る世界はきっと見えない。彼のレベルにはきっと追いつけない。いつか置いていかれる。そして彼はきっと僕のことを見向きもしない。そのことが悔しかったし、そう思う無様な自分に気付いてしまったことも悔しかった」
不二の前だと、妙に饒舌になっている自分を大和は意識していた。だがいったん吐き出した言葉は止まらなかった。不二と言えば、まるで日常会話のように自分の本心をあっさり話す大和に、逆にうろたえていた。
「……部長」
「だから、演技なんです。手塚君が尊敬するような部長を演じていたのは、全て演技だったんですよ。――実際の僕は、彼に尊敬されるほど素晴らしい人間じゃない。みっともないし凡人だし嫉妬もするし、どうしようもない、ただの一般人です」
不二はふっと何かに気付いたように、目を見開いた。
「……まさか、じゃあ、手塚にあんなことを言ったのも」
そこで言葉を飲んだ。そのカンの良さに大和は微笑んだ。
「ええ。ああ言えば、責任感の強い彼は青学から離れられないでしょう?」
青学の柱、と。
耳障りのいい言葉で、手塚の才能を青学に縛り付けた。
テニス部のためと言うより、むしろ、自分のエゴで。
不二の視線に明らかに憎しみの色が篭るのを、大和は見逃さなかった。
一端そこで息をつく。喋りすぎたかもしれない。
「――だから」
何も言わずに睨みつけてくる不二に、不意に大和は優しい視線を向けた。
「僕は愛してなんかいない手塚君に手を出すことはしません。それで満足でしょう?」
不二はまだ、何も答えない。
「この話はこれで終わりにしましょう。お互いにとって不愉快なだけですから」
大和はドアの前に立つと、鍵を開けた。
「安心してください。もうあんな事はしません。約束します。今日はもう帰りましょう」
鞄を背負った大和を呼び止めるようなタイミングで、不二は口を開いた。
「……それは偽善ですか」
「……?」
「それとも偽悪ですか」
「……何のことです」
「貴方が本心から手塚のことが嫌いなら、それは矛盾してます。結局、口じゃどう言ったって、手塚のことが大事なくせに」
大和はノブを回そうとした手をぴたりと止めた。
「ほんとに本心から嫌いなら、引退する前に手塚の尊敬を裏切ればよかったんだ。方法は幾らでもあったはずだ。でも貴方はそうできなかった。手塚を裏切りたくなかったからだ」
不二の言葉を、大和は反論せずに聞いていた。
「貴方は嘘吐きだから、口約束なんか信用出来ない」
「……それじゃ、不二君が信じられるように、ちゃんと取引にしましょう」
なおも食い下がろうとしている不二に、いい加減、うんざりした気分になってきた。
だから、普通なら、絶対に受け入れられない条件を考えた。
「じゃあ……不二君が僕に抱かれてくれたら……、ということでどうでしょう?」
◆
本当に、冗談のつもりだったのだ。
こういえば、彼はきっと、自分を見捨てて帰るに違いない、と。
まさか本当に、不二がこの条件を飲むとは、思わなかったのだ。
「promise the moon」……「途方もない約束をする」の意。
「月に約束する」ってロマンチックつーか夢見がちですよね。まさに大和(何が)。
そんな訳で大和×不二初めて編シリアス風味です。
……大和初登場の次の日にはネタは出来上がってたんですが。一年熟成。でもその割にツメが甘いのは大和だから。
本番編に続きますー……あと、塚絡みでもうちょっと弄らねばならないところが……このままじゃ塚が報われない……
乙一だったら『石の目』収録の「はじめ」がマイベストです。最高です。神です。
是非一読を……ジャンプで漫画化もされましたよ……
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