水曜日は読書の時間

 水曜日のお昼休み、一年生の教室が並ぶ廊下は喧騒で溢れていた。

 その騒ぎから少しはなれ、不二周助は階段の横で待機していた。
 理由は簡単、彼の片思いの相手がこの曜日のこの時間、必ずこの階段を通って階下へ向かうことを突き詰めたからだ。そのときはいつも手に本を持っているという情報を考えると、おそらく一階の図書室にでも向っているのだろう。何故、水曜のこの時間に限るのかは定かではないが。まあ放課後は部活があるわけだし、昼休みに行ったほうがよいのだろうけれども。

 片思いの相手の名前は手塚国光。れっきとした男だが、不二自身は同性という障害など気にしてはいなかった。だが、頭の固い手塚の方はそういう関係をおそらく受け入れないだろう。そもそも、女の子にだって……恋愛というもの自体に興味の無さそうな彼が自分の気持ちを受け入れてくれるとは思えない。
 ……そういう訳で、未だ、切ない片思いは続いている。

 クラスの離れている不二にとって、手塚と会うのは部活の時がほとんどだ。なんとかして部活以外でも彼との接点を持ちたい。
 そんな不二が同じ一年の乾その他から得た情報こそが、水曜日の手塚の行動パターンだった。

    ★★★

(わざとらしいと怪しまれるよな……平常心、平常心)
 深呼吸して息を落ち着ける。その時、廊下に満ちた話し声に混じって、目当ての人物の足音が聞こえた。やや早足で性格の生真面目さを思わせる規則正しい上靴の音。間違いなく彼だろう。
 ぎゅっと握り締めた手には、少しだけ汗が滲んでいた。
 ゆっくりと階段を降り始める。
 このまま彼が階段に来れば、自分の後ろを通る事になるはずだ。そのときに、向こうが声をかけてくるのを待つつもりだった。

 案の定、彼はぴったり直角で廊下を曲がり、階段に差し掛かった。そのまま不二の後ろを降りてくる。

 そして、無言でその横を通り過ぎていった。

「……」
 声をかけられなかったことに幾分ショックを覚えながらも、ここでそのまま行かせたら今日の計画は台無しになる。慌てて数歩前を早足で進む彼を呼び止めた。
「て、手塚っ!」
 その声で、手塚ははっとしたように振り返った。ようやく不二に気づいたらしい。
「不二? どうしたんだ?」
 平然とした声で手塚は振り向いて不二を見た。自分が無視していたことで不二がショックを受けたなんて思いもつかないようだった。
 そのことに追い討ちをかけられながらも、不二は至って平静を装って話を進めた。
「何処に行くの?」
「図書室だ」
 予想は大当たりだった。内心でガッツポーズをとる。

 ここからが肝心だ。

「へえ、同じだね。僕も図書室に行くところなんだ」
「そうか」

 それだけ答えると、手塚は再び前を向いてさっと歩き出した。余りのそっけなさに不二は思わず階段から落っこちそうになった。天才のプライドがあったのでなんとかバランスは保ち、こけて階段から落ちるような醜態を晒すのは免れたが。
 部活の友人が同じ場所に行くって言うんだから、「一緒に行こう」の一言ぐらい言えないんだろうか。
 なんなんだよ、と思いっきり突っ込みたい気持ちを押さえて、不二は手塚の後を小走りに追った。

 天然記念物並に鈍感な手塚に、受身の作戦でいったのがまずかったらしい。
 とにかく言いたい事ははっきり言わないと、彼にはちっとも通じないのだ。ならば、攻めあるのみ、と不二は作戦を変更した。

「せっかくだし、一緒に行こうよ」
 すでに三階から二階へ降りきっていた手塚の横に並ぶ。このまま腕でも組んでやろうか、と思ったが、さすがに校内なので止めた。
「……かまわないが」
 やや驚いたような表情を手塚はした。「誰かと一緒に行く」という考えが思い浮かばなかったようだった。

 階段を一階分降りるだけ、たったこれだけのやり取りなのに、不二はどっと疲労感を覚えた。
 ここまで鈍感だと、さすがは手塚、と一種の感心のようなものが生まれた。この様子だと誰からアプローチされてもある意味心配は必要あるまい。
 ……そう思わなければやってられない。

「図書室に何の用?」
「本を返して借りるんだ。当然だろう」
「……まあ、それはその通りなんだけど」
 手塚の答えはいつだって正確かつ正論だった。だから、なかなか会話が続かない。
 なんとか話題を見つけようと、不二は手塚の持っている本に注目した。
「それ、何の本?」
「『ドグラ・マグラ』」
「夢野久作?」
 不二は目を見開いて驚いた。そんな幻想怪奇系小説の代名詞みたいな作品は手塚のイメージとは違う。かなり違う。
「そうだ。知ってるのか?」
「父さんの書斎で見たことあるよ。面白かった?」
 手塚は難しい顔をした。コメントに困っているらしい。
「……難解だった。面白い、とは思ったが」
「そういう趣向の本みたいだから……」
 彼の性格上、おそらくまともに向き合おうとしたに違いない。不二は本を読みながら悩む手塚を想像して苦笑した。

 ……そして、ふと、疑問が浮かんだ。
 手塚は、自分でこの本を選んだのだろうか。でもそれはなんとなく想像しがたい。
 じゃあ、何故?

 そんな疑問を胸に抱いているうちに、図書室に到着していた。
「着いたぞ」
 手塚がドアを開ける。考え込んでいた不二は一歩出遅れた。
「あ、待って……」
 手塚を追って中に入る。当の手塚は、図書室のカウンターに一心不乱に向かって歩んでいた。
 その先にいた人物を見て、不二の中で全ての謎が解けた。

 何故手塚が『ドグラ・マグラ』を借りたのか。
 そして、手塚が何故水曜の昼休みに限って図書室に行くのか。

「大和部長……!」
 普通の人には普段と変わらないが、慣れた人間が聞けば間違いなくやや上擦った声で、手塚はカウンターの中の先輩の名を呼んだのだった。

   ★★★

「あ、あの、これ……ありがとうございました」
 手塚はおずおずと手に持っていた本を大和に差し出した。

 大和祐大・一応青春学園中等部三年生。テニス部部長を務めており、二人にとっては尊敬すべき先輩にあたる。……表情の読みにくい色メガネといい無精髭といい、例えどんなに変質者じみた風体を持っていたとしても、とりあえず尊敬すべき先輩なのである。
 とくに手塚にとっては。

「あ、もう読んだんですか? 結構大変だったでしょう」
「え、ええ……」
「じゃあ返却手続き済ませちゃいますね〜」
 大和は手塚から本を受け取ると、バーコードを読み込んでパソコンを操りさっと処理を済ませてしまった。その様子を手塚は熱い視線で見つめている。

 不二といえば、思いがけない謎の答えに、入り口で立ち尽くしていた。
(な……な、なんだって……!?)
 図書室のカウンターの中にいる、という事は大和は図書委員なのだろう。図書委員は各クラスから数名ずつ選ばれ、曜日ごとに昼間と放課後に当番を割り振られる。つまり、大和は水曜日の昼休みの図書当番というわけで。
 ひょっとして……ひょっとしなくても……手塚は毎週水曜、当番である大和に会うために、図書室に通っていたというのか。
(そんな……)
 思わず眩暈がした。
(そんな……少女漫画のお約束みたいな……っ!)

 手塚は鈍感だから、誰がアプローチしてもまず気付く心配はないだろう。
 だが、もしも。
 手塚の側から誰かにアプローチする事があったら。

 不二が予想だにしなかったそんな事態が、今、目の前で繰り広げられていた。

「部長、難しい本読んでらっしゃるんですね」
「いやー、好きなだけですよ、こーゆーお話。手塚君みたいに洋書は読みませんしね」
「い、いえ、勉強になります。是非他の本も薦めてください……!」

 端から見ていたら微笑ましい先輩と後輩の関係だ。
 しかし、不二にとってはそれどころではない。
 普段の彼からは想像もつかないぐらいの熱意をもって、大和と会話している。
 それがどんなに特別な事なのか。

「それじゃ、本を戻しに行くついでにでも……」
 そう言うと大和は立ち上がった。カウンターのほかの当番に声をかけると、その当番は「今週もか」という感じで苦笑しながら了解した。どうやら水曜昼休み名物になっているらしい。
 大和に便乗するように手塚がつき従う。返却手続きを済ませた十冊近い本を大和が抱えようとすると、手塚はそれを何冊か自分の手に持った。
「僕一人で大丈夫ですよ。重たいでしょう」
「いえ、俺が手伝いたいだけですから……」
 二人がカウンターから出た辺りで、いまだ入り口付近で立ち尽くしていた不二はようやく我に帰った。喉の奥から搾り出すようにして手塚の名前を呼ぶ。
「て、てづか……」
 手塚は、今更ようやく思い出したかのように不二の方を見た。その顔は普段の手塚に戻っている。
「ん? 不二、まだそんなところにいたのか?」
「あれ? 不二君もきてたんですか?」
「そこにいると邪魔だろう。さっさと中に入れ」
 あからさまに手塚の態度が違う。仲のよさげな二人の様子に見せ付けられている気分になり、思わず回れ右をして帰りたくなった。だが、ここで帰ったら負けたも同然だ。気力を振り絞ってなんとか手塚の元へと近づいた。
「あれ、部長じゃないですか。こんにちは」
 普通のあいさつだが、声に出来る限り棘をこめた。だが大和は何を考えてるのかさっぱり解らない笑顔で飄々と受け流した。
「こんにちは、不二君」
「こんなところで出会うとは夢にも思いませんでした。図書当番なんですか?」
「ええ」
「……手塚に『ドグラ・マグラ』を薦めたのも?」
「そうだ」
 大和への問いかけだったが、何故か手塚が答えた。
「お前も用事があるんだろう。昼休みは後20分だぞ」
「………………」
 手塚の無神経な親切に、不二は何も返事出来なかった。もともと図書室に用事があるわけではない。むしろ用事があるのは手塚なのである。だが、それをそのまま告げることは出来ない。
「そうだね」
 なんとか笑顔を作りながら、不二は二人を後にして書架の方に向かった。

   ★★★

 外国文学の棚の前に不二はいた。『影との戦い』を手にとって中を覗いているが、意識は後ろの方、歴史本の棚にいる手塚にある。
 二人は図書室にいるほかの人の邪魔にならないように小さな声で会話しているので、その内容までは解らない。だが、それなりに楽しそうである事は間違いない。
(……なんでそんなに楽しそうなんだよ)
 二人の様子を見ていると、どうしてもいらいらする。

 手塚が学校一の変人の名を欲しいままにするあの部長にどうしてそこまで陶酔しているか不二は知らない。不二が入部する前のテニス部で手塚を巡って一騒動あり、それを大和部長が治めたからだ、と他の一年から聞いたが、それだけじゃ上手く説明できない何かがある。

 精神的つながり、とでも言うような。

 一瞬、「愛」という単語が脳裏に浮かんだが、首を振ってそれを取り消した。それだけは絶対に考えたくない。
(だって、もしも……)

 もしもそうだとしたら、自分に勝ち目など、あるのだろうか。

「……ゲド戦記ですか」
「……っ!!」
 考え事をしている最中に後ろから声をかけられて、不二はびくっと全身を震わせた。
 おそるおそる後ろを向くと、当の大和が目の前にいた。
 突然の事に不二は思わず声を出して驚いた。
「そんなに驚かなくても……」
 大和はちょっと傷付いたような顔をした。
「す、すみません……」
 思わず謝ったが、何の予告もなしに声をかけるほうが悪いと思い直した。そもそも、大和は自分の外見の特異性を自覚した方がいい。
 いったい何の用だ、と身構える不二に、大和は更に質問を続けた。

「ファンタジー、好きなんですか? それとも児童文学派?」

 大和はそう言うと、手にもっている本をパタパタと振った。『ハリー・ポッターと賢者の石』だった。書架に返しに来たらしい。
 別にファンタジーが特に好きな訳ではない。児童文学の類は母親が好きなので小さい頃からよく読まされただけだ。
 不二はそう答えようとしたが、答えを聞く前に大和が話を続けた。
「これ読みました?」
「……いえ」
 周りの話題が大きすぎて、読もうと言う気が興らなかったのだ。
「じゃどうです? なかなか面白かったですよ。今なら予約もありませんし」
「………………」

 ふいに大和の後ろに眼をやると、後ろで本を持って待機している手塚が見えた。そのようすは聞き分けのいい子犬のようだった。
 なんとなく闘争心に火が点いた。

「手塚君に薦めたらどうなんですか?」
「今日はもう別の本薦めちゃいましたから。『銀河鉄道の夜』ですが。全部読んだことはないらしいので」
「……どういう基準なんですか」
「僕の好みです」
 大和は笑顔を見せたが、無茶苦茶な選択に不二は呆れた。手塚の方がこれじゃ混乱するだろう。
「あなたの趣味を押し付けるなんて、横暴じゃないんですか?」
「僕が押し付けてる訳じゃありませんよ」
 そういう声の調子に余裕の臭いを嗅ぎ取った不二は、むっとした。
「でも……」
「そんなことより、宮沢賢治はどうですか?」
 自分の話を遮られる形で急に質問を変えられたので、不二は動揺した。
「……え?」
「あの文体が好きなんですよね」
 大和が何を言いたいのか解らなかった不二は、とりあえず素直に答えておいた。宮沢賢治は嫌いではない。
「……それは……、解る気がします」
「じゃあ……児童文学、結構読むんですか?」
「…………まあ」
 好き、というほどでもないが、よく読んだことは間違いない。
「その辺は僕も結構好きですよ」
「そう……なんですか?」
 中年くさい外見に反して、意外な趣味だと思えた。手塚に夢野久作をすすめるくらいだから、児童文学からはほど遠い好みのではないかと思っていたが。
 そう口にすると、大和は頭を掻いて笑った。
「面白そうならなんでも読んじゃいますから……コレもね」
 手の中の世界的ベストセラーを指差しながら大和は言った。
 そこで、いったん間を置いた。次に何を言うべきか迷っているようでもあった。
「そうですね……」
 大和はゆっくりとしゃがみ込むと、不二に視線を合わせた。
「不二君と僕、結構、趣味似てるのかもしれませんね」
「………………」
 ハリー・ポッターを本棚に返しながら言う。
 その真意が掴めなくて、不二は黙り込んだ。

 ふいに話題の手塚は、トリイ・ヘイデンを抱えて大和の横に並んできた。
「部長、これ……、ここですよね」
「あ、ありがとうございますね、手塚君」
「これで全部ですか?」
「ええ」
 大和とのやり取りを終えると、手塚は不二の方を伺った。
「何か、借りるのか?」
「え……う、うん……」
 借りないのも不自然かと思ったので、思わず肯いてしまった。
「もうちょっと探してみるね」
「もう後5分だぞ。急げよ」
 手塚はそう言うと、大和と共にカウンターに向かった。

   ★★★

「……羨ましいな、お前が」
 図書室から戻るときも一緒に帰りながら、手塚が急にそんな事を言い出したので、不二は驚きで足を止めた。
「はあ?」
 いったい何の話だろう。手塚は僅かに頭を下げた。

「部長とちゃんと話が出来て……」
「…………はああ?」

 ちょっと待て、と不二は思った。「ちゃんと話が出来ている」って何処を見てそういうことが言えるのだろう。自分は相手に対して毒を飛ばしまくっていた訳だし、向こうはそれを受け流していただけなのに。あれは会話と言うよりは舌戦だ。少なくとも自分にとってはそうだった。
 不二が何と言っていいか迷っていると、手塚が続けて話し始めた。
「俺は……このとおり、話下手だから。一緒にいてもお前だってつまらないだろう?」
「そんなことないよ」
 困ったように言葉を紡ぐ手塚に不二は見入っていた。話下手、という自覚はあったらしい。そのせいで、今日最初に会った時に一緒に行くことを思いつかなかったのかもしれない。
 手塚は更に続ける。
「いや……それに、その上、部長と話すと、なんというか……更に上がってしまうんだ」
「…………そうみたいだね」
 不二もそれは否定できなかった。
「緊張して、上手く話せなくなる……」
 そこまで話して、手塚は溜息をついた。
「だから……普通に話せる不二が、羨ましい。不二は趣味も合うみたいだし」
「……手塚」
(……笑った?)
 自嘲だったのかもしれない。目の錯覚だったのかもしれない。
 だが、確かに手塚が笑ったように不二には見えた。

(結局、手塚はあの人のこと、尊敬してるだけなんだよな)
 尊敬の念がちょっとズレている気はするんだけど。
 だが、そう思ったら、嫉妬なんてしてる自分がひどく馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 それに。
 こうやって、手塚が自分には弱音を見せてくれたのだ。
 それで今は十分だと思えた。

 不二は手塚の顔の前に回り込んだ。顔と顔を至近距離で見合わせる。
「じゃあ、ちゃんとお話できるように、僕と特訓しようか」
「……いいのか?」
「もちろん」
 その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「もうこんな時間か……じゃあ、部活でな」
「うん」
 教室に向かう手塚を、不二はじっと見つめていた。


以前日記で言っていた図書委員大和ネタ。
……塚大和? 大和塚?
でもこの二人はメンタルでプラトニックです。プラトニックにバカップルです。

小塚の扱いに慣れていない小不二の苦労話のはずだったんだけどなーおかしいなー。
大和は割と文学系、しかも乱読家かなー、と勝手に想像……趣味入ってます。ごめん。
ああそうさ私が好きなんだよ!(逆ギレするな)。……しかし笑えますよね。ハリポタ読む大和。
不二は『星の王子様』好きだしなー。宮沢賢治とかも読むんだろうなー。んじゃ児童文学かーって感じで。
塚はなー……ファンブックだと洋書読んでだしな(汗)。

塚も乙女くさいですが待ち伏せしてるあんたもよっぽどのものだと思います天才様。
足音も聞き分けられる天才様……(汗)

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