「……?」
廊下を歩いていた不二は、ふと足を止めた。
窓からひたすらじっと外を眺めている生徒がいる。
その顔に見覚えがあった。同じテニス部の一年生だし、小学生時代から名前だけは聞いたことがある生徒だったからだ。
名前は……そう、乾。
外見はこれと言って目立ったところは無い。強いていえば大きく分厚い黒ブチ眼鏡だろうか。固そうな黒髪は短く、いかにも適当に切ったという感じだった。
乾は微動だにせず窓の外を見ていた。視線が上を向いているところをすると、おそらく空でも見ているのだろう。
だが、空に何があるというのだろうか。
薄い雲は見えるが、基本的に初夏の青空が広がっているだけで、これといって変わったところはない。
乾とは部活では時々当り障りのない会話をするぐらいで、とくに仲がいいという訳ではない。しかし今回は気になったので、不二は声をかけてみることに決めた。
「乾君? どうしたの?」
声をかけられて、乾はあからさまにぎょっとした様子で不二の方を向いた。
不二の方を伺ったまま硬直している。
驚きの余り、何があったのか、よく解っていないようだった。
「……えーと、どうしたの?」
とりあえずもう一度尋ねる。
乾は丘に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせてから、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「ふ、不二……周助……」
不二は眉根を寄せた。
「……フルネームで呼ぶのやめてよ。不二でいいから。どうしたの?」
「そ、そっちこそ、いきなり話しかけてくるなんて、どうしたんだ……」
どうやら、自分に話しかけられたのが意外で驚いているらしい。
なんとなく気分を害される。
「どうしたんだ、って言われても。チームメイトに話し掛けて何か不都合あるの?」
幾分棘のある不二の口調に、乾はややたじろいでいた。
「い、いや……そういえばそうか……」
どもりながらそう答える。納得したらしい。
「……悪かった」
「謝られるようなことでもないけどね。で、どうしたの? 空でも見てたみたいだけど。何かあるの?」
不二はようやく本題を切り出した。
そう言われて、乾もはっとした顔になった。自分が何をしていたか思い出したらしい。
「……いや、雨になるか、と思ったから」
「雨?」
言われて不二も空を見た。
だが、空は雲がうっすらと出ているとはいえよく晴れているように見える。雨が降るとは思えないが。
乾は空から目を離さずに答えた。
「巻層雲が見える」
「巻層雲?」
聞いたことぐらいはあるが、それがどんな雲かは不二はとっさに思いつかなかった。
「今見える薄い白い雲が巻層雲。太陽が丸い輪のかさをかぶっているだろ? これも巻層雲が原因。この雲が見えると天気が悪くなることが多い」
「ああ、そういえばことわざで言うよね。『太陽がかさをかぶると雨』って」
「そう」
不二に納得してもらえて嬉しかったのか、乾は少し笑った。
「さすが乾君。やっぱり理科には強いんだね」
誉めると乾は身を縮めた。
「……そう言うわけでもないよ。もともと、俺も昔、教授に聞いたことだし……」
「……教授?」
不二の脳裏に浮かんだのは大学で教鞭をとっている「教授」の姿だ。乾は大学教授に知り合いがいるのかと、少し驚いた。
だが、不二の勘違いに気づいたのか、乾はあわてて否定した。
「ち、違う……あだ名でそう呼んでた友達が居るんだ。柳って言って……」
「ああ、そういうこと。柳君の名前は知ってるよ」
乾に言われて不二も了解した。
小学校時代、乾はダブルスをやっていた。そのパートナーが柳と言う名前であることを不二は知っていた。そもそも、柳と乾のダブルスと言えば、当時のジュニアテニス界にいた者で知らないものはいない。
「そういえばさ」
不二は話題を変えた。
「ずっと気になってたんだけど、その柳君の方はどうしたの?」
小学校のいつのころからか、二人のダブルスの噂を耳にしなくなった。不二はシングルスの方にいたので、あまり気にはしていなかった。
だが、今噂の有名ダブルスの片割れが目の前に居るのに、興味を示さないというわけではない。
しかし柳のことを問われたとたん、乾の表情があからさまに曇った。
「柳、……は」
途切れ途切れに言葉にしていく。
「……転校した。それから会っていない。今は神奈川の立海大付属に……」
しゃべるたびに乾の声が沈んでいくので、不二は慌てて遮った。
「あ、そうだったんだ。二人セットでうちに入っていればよかったのに」
「…………」
まだ乾の顔は暗い。何か地雷を踏んでしまったらしい。
不二は慎重に言葉を選んで口を開いた。
「え……と、じゃあさ、乾君、中学でもダブルス希望なの?」
「いや」
今までの落ち込んだ様子から一変して、乾は力強く答えた。
「シングルス……を、やりたい」
答えの意外さと、声の変わりように、不二は正直驚いていた。
その様子に興味がわいた。
「へえ、そうなの?」
「ああ。シングルスじゃなければいけないんだ」
「どうして?」
「それは……」
しかし会話の途中で予鈴がなった。
不二は少し慌てた。
「あ、次体育なんだ。ごめんね。また部活で」
「ああ」
そう言って乾と別れた。
教室に向かう途中、乾が言おうとしていた「シングルスでなければならない理由」が妙に気になった。
ダブルスであれだけ有名だった選手だ。てっきりダブルスを続けるものだと思っていたのに。
機会があれば聞いてみようと、不二はそう思った。
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その日の六時間目ぐらいから乾の天気予想通り空は曇りだし、放課後になったころには雨になった。
だが地区予選を間近に控えて、テニス部は練習を怠るわけにはいかなかった。コートこそ使用できないものの、今日は校舎の中での基礎トレーニングと視聴覚室でビデオによるダブルスのフォーメーションの研究となった。
視聴覚室へと向かう途中、さっそく不二は乾を呼び止めた。
「本当に雨になったね」
今度は乾もあからさまに驚かなかった。小さく首を縦に振る。
「うん」
そこで、不二は早速気になっていたことを尋ねた。
「ところでさ、お昼休みの続きだけど、今、聞いていい?」
「昼休みの……ああ」
乾は少し悩んだようだが、すぐに思い出したようだった。
「どうしてシングルスがいいの? 僕、乾君がうちに入ったって聞いたとき、絶対ダブルスだって思ったんだけど」
不二の言葉に、乾は少し困ったような顔をした。
「やはり……そう、思うか?」
「まあ、ね。特にさ、青学ってダブルスの人材に不足しがちみたいだから。シングルスはそれなりにいるのに」
どうも個性的なプレイヤーが多すぎて、個人技になりがちな傾向があるらしい。
「……不二君たちも、そうだね」
不思議な言い方をされて、不二の方が今度は首をかしげた。
「……僕『たち』って?」
どうして複数形なのだ。
「ああ、不二君と手塚君だよ。二人ともシングルスじゃないか」
手塚と一まとめにされて、嬉しいようなこそばゆいような、複雑な感情を不二は抱いた。
「うーん。シングルスって意味じゃそうだけど、でも僕と手塚をまとめて複数形にするのはやめてよ。なんか恐れ多い感じ」
「……そう、か?」
「うん」
話題の張本人である手塚を伺うと、部長と大石と、なにやら談笑している。それはそれで気にはなったが、あまりピリピリするのも馬鹿らしいので見てみぬふりをした不二だった。
少し考えた後、乾は声を潜めてこう言った。
「でも、俺たち一年にしてみると、二人はやっぱり特別だよ。最初から、立っている位置が違う」
少し、自嘲の混じった言葉だった。
「……そんなこと。だって乾君だって、ダブルスで……」
「……ダブルスは二人いないと出来ない」
また、乾の表情が曇った。
「……ま、とりあえず、それは置いといて」
不二はあわてて本題に戻ろうとした。
「で、だから、シングルスの理由なんだけど」
「ああ、そうか」
そこで、乾は少し間をおいた。
「……戦いたい相手がいるんだ」
「シングルスで?」
「うん」
「ふうん」
ダブルスのことを持ち出すと乾の目は暗くなるが、逆にシングルスのことを話す表情は明るい。
それで不二はなんとなく気づいた。
「戦いたい相手って、柳君?」
乾は一瞬驚いて言葉に詰まったが、こくりと首を縦に振った。
「……そう、だ」
だがどうして解ったのだろうかと言う疑問が、表情からありありと透けて見えた。
「結構解りやすいんだよね、乾君って」
不二は苦笑した。
「そ、そうなのか……」
乾はうろたえた様子でそれだけ答えた。
「ダブルスのパートナーと、シングルスでかあ……がんばってね」
「……ああ」
乾が小さく頷くのを、不二は満足げに眺めていた。
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視聴覚室に学年ごとに固まって、テニス部の面々はプロの試合のビデオを観賞していた。ダブルスのフォーメーションの研究のためだ。
ビデオが終わって、副部長が部屋の前にホワイトボードを引っ張り出してくる。そして竜崎がレギュラーのダブルスペアを見本に先ほどのフォーメーションを図解で解説し始めた。
一年生、特に大石とダブルスを組む宣言をした菊丸はやけに真剣にその話を聞いているが、不二はぼんやりと聞き流していた。もともと、二人で助け合うダブルスは自分の性には合わないのだ。
あくびをかみ殺したとき、不意に、自分の後ろから声がした。
「すみません……」
「ん? どうしたんだい、乾」
竜崎の声で、乾が質問のために手を上げたことが解った。
「……失礼ですが、先輩たちの動き方だと、21.8%の無駄が出ることになります……」
室内にざわめきが走る。
入部したばかりの一年生が、いきなり三年生のやり方に意見を述べた挙句、それを無駄だと言い切ったのだ。
だが、前に並んでいる竜崎はにやりと笑うと、乾を手招きして前へと呼んだ。
「なら、お前さんなら、どうするんだい? こっちに来てちょっと言ってごらん」
「……はい」
竜崎に言われたとおりに、乾は前に出て、ノート片手に自論を展開し始めた。
菊丸がその様子を見ながら小声で言う。
「うわ……乾のヤツ、勇気あるな〜〜!」
それに不二も、その周りにいた一年の面々も納得した。
「乾君って、小学校のときダブルスで有名だったって聞いたけど……」
「うん、そうだって先輩が言ってたよ〜!」
河村の問いに答えたのは菊丸だった。だが、二人とも中学でテニスを始めたので、詳しいことは知らないようだ。
「小学校のときの話、不二、知ってる?」
自分に話が振られて、不二は一応軽くうなずいておいた。
「ジュニアテニスやってたら、知らない人は居ないんじゃないかな」
「へ〜、そんなに凄かったんだ……」
菊丸の声が、歓声からじょじょに疑問に変わっていく。
「じゃ、乾ってもダブルス狙いなのかにゃ……?」
「うーん……」
そうじゃないことは不二は先ほど聞いたばかりだったが、あえて黙っておいた。
それよりも、気になることがあった。
一年生の左前には、二年生がまとまっている。
そこに不穏な気配が漂っていた。
いきなり三年生に意見を述べた乾を、心地よく思っていないだろうことは簡単に理解できた。
それでなくても、乾の説明は計算や公式を用いたものが多く、耳から聞くだけでは簡単に理解できない。それも先輩たちを苛立たせつ一因のようだった。
(……まったく子供なんだよな、先輩たち)
自分はなんとかおとなしく振舞うことで先輩の嫉妬を回避してきたが、手塚の時も同じようなことがあったらしい。まあ、手塚には部長の後ろ盾があからさまに見えるし、手塚の実力は文句のつけようがないので、先輩たちも今はうるさく突っかかることはないようだ。
その分、鬱屈した感情が、別の部分に噴出すことは考えられる。
テニス部内も、今日の雨と同様、曇り空であるらしい。
二年生の集団を伺ったあとで、教室の前にいる乾に目をやった。
乾はややあがっているようだったが、それでも、堂々と自分の意見を述べていた。
「乾君さ、大丈夫かな」
不二は小声で前の席に座っていた手塚に声をかけた。
手塚は神妙な声で答えた。
「先輩たちの言っていることも確かだが、乾君の言うことにも一理ある。心配ないだろう」
「いやね、そういうことじゃなくて……こんな目立ったりしたら、先輩たち、あんまりいい気分にならないんじゃないかな、って」
「……そう、か?」
手塚は不思議そうに首をひねった。
まあ、手塚はそういうことあんまり考えないんだろうな、と不二は諦めた。
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その次の日は、昨日の雨も上がって、良いスポーツ日和だった。
昨日の練習内容の延長、ということで、今日の練習はダブルスの特訓だった。一年生も含めてくじで適当にパートナーを決めて、昨日学んだフォーメーションを試そうというのだ。
不二は比較的大人しい二年生の先輩とペアを組むことになった。一年生にも優しいと人気のある人物で、腕は準レギュラーぐらいに当たるが、覇気がないのが欠点だというタイプだった。
「よろしくお願いします」
ぺこりと不二が頭を下げると、その先輩は人当たりのいい微笑を見せた。
「こちらこそ、よろしく」
その笑みに不二は邪気を抜かれた笑みを返した。自分が普段仮面のように笑顔を貼り付けている分、本当に心から笑顔でいられる人間とそうでない人間の差はなんとなくわかる。この先輩は前者のようだった。貴重な人材だ。
「Bコートで次の試合だからね」
「はい」
言われてBコートに向かう。
そこでは、二つのペアが試合形式で練習をしていた。
手前のコートで試合をしているペアの、片割れに目が行った。
乾だった。
(ふうん)
ダブルスを行う乾は記憶にある限り始めて見る気もするが、不二は素直に感心した。無駄のない動きというか、おそらく相手の動きを先読みしているのだ。これが乾お得意のデータテニスだろう。相手のデータを徹底的に調べ上げて試合に臨む。
(ま、確かに、シングルスでも結構強くなりそうだよね……)
……というか、今のところ、乾の動きが良すぎて、ペアを組む先輩があまり目立ってはいない。だからシングルスで試合をしているように見える。
肝心の乾のペアが誰かと思って、不二はその顔を確かめた。
その瞬間、嫌な予感がした。
昨日、乾が視聴覚室で前に出たときに、あからさまに嫌そうな顔をしていた先輩の一人だとすぐにわかった。以前手塚の腕を傷つけた前科を持つ、武居とは仲のいいグループに属していたと記憶している。
実際今も、だいぶイラついているだろうことは表情から予想がつく。乾が相手に合わせていないのだ。
(まずいんじゃ、ないかな……)
他人事ながら心配になる。自分と乾のパートナーが変わればいいんじゃないか、と、そんな無理なことすら浮かぶ。
空は快晴だが、テニス部内には、以前として不穏な空気が残っているようだった。
その心配は、すぐに現実になった。
二人の真ん中に落ちたボールを二人で追いかけて、そのままぶつかってしまったのだ。
「っツ……!」
体格の劣る乾の方が、大きく吹き飛ばされた。
そのまま顔からコートにすべるように倒れこんだ。
「っ何しやがるんだ、てめえ!」
体勢を立て直した先輩の方が乾に怒鳴りつける。乾はなんとか膝をついて、顔を上げた。
その頬に、血が滲んでいる。
乾は何か言いたそうに口を開いたが、やがて、頭だけ下げた。
「……すみません」
それだけ言って、ぷいと顔を背けた。
(ああもう……)
そんな態度じゃ相手を逆切れさせるだけだと、不二は思った。
事実そのとおりになった。
「お前、先輩に向かってその態度はなんだ!! 言いたいことがあるならはっきり言え!!」
試合中だと言うことを忘れて、先輩は乾の首根っこをつかんだ。
その騒ぎで、別のコートで試合中だった部員の面々もこちらの以上に気づいたらしい。
「うわ、困ったなあ。おーい、いい加減にしないとまた部長に走らされるよー!」
不二の隣の先輩が声をかけるが、聞く耳ももはやもっていないようだった。
「うるさい! こいつが悪いんだ、不満そうな面ばっかりしやがってよ……!」
「……先輩に言っても、理解できるとは思えません」
「なんだと!?」
ますます乾は相手を苛立たせるだけの台詞を口にした。
「何がデータテニスだ! 人のことじろじろ観察しやがって、気持ち悪いんだよ!!」
「……でも、データは嘘をつきません」
自分のプレイスタイルを否定されて、乾のほうもややムキになったようだった。
「てめえ、ちょっとガキのころ有名だったからって、いい気になってるんじゃねえぞ!? 簡単に中学でもダブルスが出来ると思ってるんじゃねえだろうな!?」
「……そんなこと思ってません。ダブルスをしたい訳でもありません! 俺はシングルスがやりたいんです!!」
「なっ……」
乾の強い口調に先輩は絶句したが、すぐに気を取り直したようだった。
「ああ、てめえ、俺なんかとじゃダブルス出来ねえってことか、それは!?」
ぐっと乾は黙り込んだ。
それは肯定の仕草にとれた。
「なめやがって……!!」
「グラウンド100周ですね」
そのとき。
コートに急にぬっと現れたのは、部長その人だった。
乾と先輩の間に立っている。
「……と行きたいところですが、昨日の雨でぬかるんでいるので、50周にしておきましょう」
「な……部長、これは違うんです、その……!」
「……部長」
「言い訳は無用、揉め事は連帯責任ですよ。はーい皆さん走って走って。あ、乾君はまず、顔洗ってきてから50周ですよ」
そういって、大和は二人の背を並べて送り出した。
そして、Bコートで見守っていただけの他の面々もランニングに出させる。
周りがみな走り出したので、しぶしぶ不二もその輪に加わった。
前の方で、乾が輪を外れて水道に向かっていくのが、ふと目に入った。
何か非常に落ち込んでいるようだった。
カプが微妙ですみません。大和乾のつもりなんですが延びちゃったので不二乾にしか見えない。
どっちにしろ塚が……
一年乾の口調が難しいです。ヤツはあまり崩さないとは思いつつ……。
……タイトルはマリ見てよりでした。ごめん。思いつかなかったんだ……。
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