空はどこまでも青かった。
生きる事が馬鹿馬鹿しくなるぐらい。
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「……いい天気だな」
校舎の屋上。乾は仰向けになり大の字に寝転がっていた。
誰もいない屋上で一人呟く。
腕時計を見て時間を確認した。もう部活が始まる時間は過ぎている。だが動こうという気にならなかった。
登校拒否ならぬ部活拒否だ。部活自体に出たくない、という訳ではない。ただ、テニス部員に一人、どうしても会いたくない人間がいる。数日前行われた校内ランキング戦で乾が惨敗した相手だ。次の日は特に気にしなかったが、そのあと、どんどん日が経つにつれ彼と顔を合わすのが辛くなってきた。
そして今ではこうして部活をサボるほど、症状は悪化している。
「参ったな……」
自分でも解っている。こうやっているのはただの逃げだと。意味がないどころか、無断欠席などすればせっかく保持したレギュラーの座すら危うい。そもそも試合に負けたぐらいで何をうじうじしているのかと、自分に腹が立って仕方がない。負けて悔しい気持ちは誰にだってある。だがその敗北をばねにしてよりデータを集め練習に励めばいいではないか。
……そう理屈では解っていても、身体は動いてくれない。
今までさんざん負けてきた相手だ、今更気にする必要はない。そう自分に言い聞かせてみる。何せ相手は入部時から鳴り物入りで入ってきた「天才」、青学ナンバー2なのだ。負けて当然の相手だ。
だが、今回のランキング戦は。
勝つ自信があったのだ。
分厚いレンズを通して、晴天を見上げる。
中空に腕を伸ばして、何かを掴もうと指を曲げる。だが、指の間を空気が通り抜けただけだった。
「……届かない、か」
指の間から覗く空は、たまらなく、青い。
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今回の校内ランキング戦より三年生は引退し、代わりに一年生が加わっていた。二年生である乾は実質テニス部内の最高学年となる。
その試合で、乾は同じブロックだった不二に負けていた。
今までのランキング戦組み合わせの統計からすると、今回、乾と不二が同じブロックになる確率は九割を超えていた。データテニスを至上のものとする乾は不二のデータを徹底的に調べ上げて試合にのぞんだ。一年以上も一緒に練習や試合を行ってきたのだ、データは豊富にある。不二のテニスは抜群のセンスによる技術中心のものであるから、データさえ揃えば勝てるはずだと考えた。球のくせ、好み、弱点……今までの試合のデータから完全に割り出したつもりだった。計算上の勝率は八割を超えていた。
しかし結果は散々なものだった。
不二は弱点を見せるテニスをするような人間ではなかったのだ。
正確だと思っていたデータは全て破壊され尽くし、茫然自失のうちに不二の圧勝で試合は終わっていた。
あの天才が「天才」と呼ばれる所以は、ただの技術的なところだけではない事を思い知らされた。
結局、乾はその一敗以外は勝利を収め、レギュラーの座は確保した。
本人の納得の行かない形で。
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「いーぬい! 遅刻なんてどーしたんだよ?」
遅刻の罰のグランド20週を終えた乾に、菊丸が後ろから乗りかかってきた。勢いと疲れでわずかに乾はよろけたが、なんとか耐えた。後ろを見ると黄金ペアのもう片方も人の良さそうな笑顔を浮かべている。
「珍しいな、乾が遅刻なんて」
あの後、結局半時間ほど遅れたが部活に出る事にした。無断欠席などしたら部長の逆鱗に触れる事は間違いない。嫌がる身体を気力だけで起して部活へやってきた。当然手塚にいつもの罰ランニングをくらうこととなったが、走っている方がましだった。練習でコートに入るとなると嫌でも不二と顔を合わせてしまう。
「いったいどうしたんだ?」
大石の問に、なんと答えようか迷ったか、無難に返しておいた。
「いや……ちょっとぼんやりしてたら」
「ぼんやり? 乾が? 計算じゃなくて?」
菊丸が目を丸くする。うわー雨でもふるんじゃないの今日、と軽口を叩く。そんなにいつも自分は計算ばかりしているように見られているのだろうか、と僅かにショックを受けた。
「新しくレギュラーも決まったからな、気合いれてがんばってくれよ」
「……ああ」
「お前のデータは皆信用してるから」
「不二相手によくやったよー。すごいよー、乾」
菊丸は手を伸ばすと、よしよしと乾の頭を撫でた。
「……何だ?」
「しかしすっかり高くなっちゃったよなー」
問いかけには答えずに、菊丸は乾から離れると、背伸びして乾と身長を比べた。わずかに口を尖らせる。
「入部した時は今の二年の中で一番小さかったくせにー」
「……それは……」
実はそうなのだが、本人にとってはあまり思い出したくない過去だ。身長を伸ばそうと毎日努力した結果が現在のこれだ。だが見下ろされるようになった他の二年生たちは、やっかみをこめて入部当時の乾をネタにする。
「おいおいエージ……でも、乾は本当に強くなったよな」
大石が菊丸の肩を叩く。
「そだね〜、多分シングルスじゃ手塚と不二の次ぐらいじゃない? よっ、ナンバー3!」
ナンバー3。
菊丸が何げなく言った言葉に、ふと目を見開く。
「じゃ、今日はダブルスの練習だからな」
「解った」
黄金ペアは仲良くコートに去っていこうとした。
「……ところでさ、乾」
菊丸が別れる前に、少し言いよどんだ様子で声をかけた。
「何だ?」
「いつものノート、どーしたんだよ?」
「……ああ。今日は忘れたんだ」
「……そっか。やっぱり珍しい日みたいだな、今日は」
菊丸はそれだけ言うと、大石の後を追った。
「……」
大人数の兄弟に囲まれて育った末っ子特有の感覚のなせる技か、菊丸はずかずかものを言う割に人の気持ちに妙に鋭いところがある。大石は大石で調和と気配りをモットーとする人間だ。そういうところに細かい事が彼が副部長である理由だ。おそらく二人とも、自分の不調に気付いているのだろう。出来るだけ人に気付かれないようにしていたはずだが、自分の不調はバレバレだったらしい。
心配してくれる気持ちは嬉しい。だが、だからと言って自分がどうなるものでもない。
コートに向かう黄金ペアに内心感謝しつつも、複雑な気分の乾だった。
黄金ペアと行き違いに、練習を終えた不二がこちらへ近づいて来る様子が見えた。
ぽかんとしていた乾は、我を取り戻し、早足でコートへと向かった。
「…………」
途中、不二とすれ違う。
思わず俯いて目を合わさないようにする。
数歩離れたところで、不二がふと立ち止まって声をかけた。
「乾。珍しいね遅れるなんて」
乾は足を止めると、背中で答えた。
「……ちょっと、な」
「そう? あんまりさぼってると、手塚うるさいよ?」
不二はそれ以上何も言わなかった。それだけ言うと部室に向かった。
乾も再び早足で歩き出した。
●
一日の練習が終わり、遅刻の罰で乾は用具の片づけを担当するはめになった。体育用具室にポールなどを返し、その後用具室の鍵を職員室まで届ける。職員室で顧問の竜崎と少し話をしていたらすっかり遅くなってしまった。あたりは既に暗くなり始めている。着替えはしていたが、鞄はまだ部室の中だ。
(まだ誰か残っていれば……)
手塚や大石が帰ってしまっていたら、また職員室に戻って鍵を借りなくてはならない。駆け足で部室まで向かった。幸運な事に、部室には灯りがついていた。人がいる証拠だ。
(助かった……)
そう思い、ドアを開けようとした瞬間、中にいる人物の声が聞こえてきた。
「……最近、乾が変だと思わないか」
乾は息を呑んだ。手を止めてドアの前に棒立ちになった。手塚が自分の話題を口にしている。しかも手塚以外にも誰かいるらしい。その人物に話しかけているのだ。
「うん、調子悪いみたいだね。僕に負けてから」
もう一人の人物に気付いた乾の額に汗が浮かんだ。
――不二だ。
手塚と不二が、自分のことを話している?
そう思うと、中に入ることも帰る事もできなくなった。ただドアの前で呆然と立ち尽くしていた。
「あんな勝ち方はないだろう……あれでは乾が可哀想だ。いくらデータを取られないためとはいってもな」
意識のどこか遠いところで話が聞こえる。
二人が話しているのはあの試合のことだ。乾が不二に負けた。
だが何故?
何故今、この場所でその話をする必要があるんだ?
「……君、乾の肩を持つんだ」
「そういう訳ではない。だが、乾が落ち込んでいるのは事実だ」
「あ、ひょっとして大石に告げ口された?」
「まあ……な」
手塚がやや間をおいてから言った答えに、不二は軽く笑った。
「やっぱり。君がそーゆー人間の微妙な心理に気付くはずないんだよね」
「それはどうでもいい……」
「大石も大石で心配性だなあ。僕に直接言えばいいのに」
「とにかく、乾が不調なのはお前の責任だろう」
ドアの外で乾は生きている心地がしなかった。
青学ナンバー1とナンバー2が、自分の話題を口にしているのだ。
――絶対に手が届くはずがないと信じていた存在が。
「じゃあ……僕に、乾に謝れって言うの?」
「そういう問題……ではないな……」
手塚は深く溜息をついた。椅子がギシギシと軋む音が聞こえる。どちらかが背もたれに深く寄りかかったのだろう。おそらく不二だろうが。
「僕に負けたことで落ち込んでるんだとしても……結局、乾が自力で立ち直るしかないよ」
それは、わかっている。
解っているのだが。
脳裏に指の隙間から仰いだ空が浮かぶ。
手をいくら伸ばしたって。
あの青い空には届かなくて。
どんなに努力しても。
無駄な事があるのだって。
「だが、乾のデータを否定するようなやり方はなかっただろう」
「…………」
不二は少し、黙り込んだようだった。
「あれから、乾、データノートを手にとっていないんだぞ」
「……知ってるよ。だから変だって言ってるじゃん」
手塚は少し間をおいて話し出した。
「……乾のテニスは、他の誰にも真似できない素晴らしいものだ。青学のために……そしてあいつ自身のために大切なものだ」
「……それも知ってるってば」
少したってから、不二は大きく吐息をついた。
「僕は僕なりに乾を高く評価してるよ。……評価してるからあんな勝ち方になっちゃたんだよ」
その言葉を聞いて、乾は呆然とした。
「……どういう意味だ?」
手塚が不思議そうに問う。
「僕はテクニック勝負だからね。所詮小手先の技でしかない。力もスピードも体力もあんまりないし……何より完璧じゃない。……君みたいに」
おや、と乾は妙な感触を抱いた。不二の最後の言葉には少し苛立ちが混じっているようだ。
「弱点だってちゃんとあるよ。自覚してる。……だから、乾のデータは正直恐かった。」
恐かった、と言った。
あの「天才」が。
自分の事を。
空が、急に落ちてくる。
「それでなくても、僕らの中で一番伸びてるのは乾だから」
「……そうだな」
「うかうかしてると、僕もナンバー2の座に安住してられないかなって……負けたくなかったんだよ」
ドアの外で乾は一人、声を殺して笑った。
「……ははは……」
緊張の限界に達していた足から力が抜けて地面にへたりこんだ。ドアに背中を預け、右手で顔を覆った。
指の隙間から見える空は暗く、もうどこまでも高い青空ではない。
永遠に手の届かない場所にいると思っていた天才は。
思ったより、近くにいるのかもしれない。
「だから、あんな勝ち方をしたのか?」
「そういうこと」
「……それを乾本人に言ってやればいいんじゃないか」
「……そうだね」
がたりと椅子が動いた音がした。
「じゃ、今日はそろそろ帰るよ」
「……ああ、残らせて悪かった」
「別に気にしてないよ。じゃあね」
その会話を耳にして、乾は我に返った。不二が帰ろうとしている。となると、ここで話を全て立ち聞きしていた事がばれてしまう。慌てて立ち上がって身を隠そうとした。だが時は既に遅かった。
ドアノブが回って、ドアがゆっくりと開く。
その先には。
お馴染みのにこにこ笑顔を浮かべた不二がいた。
「あれ? 乾じゃない」
「や……やあ、不二……」
乾は慌てて取り繕った。ぎくしゃくと片手を上げる。
「どうしたの?」
「い、いや、その……な、いまさっきここに来たところなんだが……」
「ああ、鍵返しに行ってたんだっけ? 鞄まだ部室の中なんだよね?」
「そ、そう……鞄を取りに来たんだ……ついさっき……」
立ち聞きしていた事がばれると気まずい。なんとかしてごまかさなくてはならない。
「じゃあ僕はお先に」
「あ、ああ……」
不二はそのまま、帰ろうとした。ばれてなかったのか、と乾は胸をなでおろした。
「あ、そうだ。乾」
「……何だ?」
「そういうことだし、負けないからね」
「……!!」
「それじゃ、また明日」
立ち聞きしていた事はすでにばれていたらしい。
というかおそらく、不二の性格上、乾がいることを知っていてああいう話を始めたのだろう。
再び乾の足から力が抜けた。
「はは……」
やはり、不二には永遠に勝てないかもしれない、と思った。
それでも気分は清々しかった。
「……乾、か」
部室の中の手塚に名を呼ばれた。気まずい思いで答える。手塚は部誌に目を落としておりこちらを見てはいない。向こうも気持ちは同じらしい。
「……聞いていたのか」
「……立ち聞きするつもりははなかった」
「まあ、………………そう、落ち込むな」
「……解った」
慰めの言葉は慣れていないのか、手塚の口調はぎこちなかった。自分と決して目を合わそうとしないのも照れくさいからかもしれない。
乾はロッカーに入れておいた鞄を開けると、一番下に潜り込ませてあったデータノートを数日ぶりに取り出した。わずかに顔が緩む。テニスを始め、自分はデータで勝負をしようと決めて以来の付き合いだ。一日たりとも手放した事はなかったので、数日見ていないだけでヤケに感慨深いものが込み上げて来る。
「俺も先に失礼するよ」
鞄を担いで部室を後にしようとする。
「今日は遅れて悪かった、手塚」
「明日からは気をつけろ」
「解ってるよ」
ドアのノブに手をかけながら、思いついたように乾は口にした。
「……なあ、手塚」
「なんだ?」
「不二には敵わないな」
手塚は一瞬、動かしていた手を止めた。大きな溜息とともに答えた。
「……そうだな」
その答えを聞いて、満足げに乾は部室を後にした。
ここ数日データ更新をサボっていたため、今夜は忙しくなりそうだった。
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夜空には、一番星が僅かな輝きを見せていた。
そういう訳で、皆から愛されてるデータマンのお話でしたとさ。
漫画でもネタにしましたが、乾、一度観月と同じ負け方してると思うんですが。
そういう思いつきから二年時捏造……いや一年時も捏造……。
……実は乾大好物です(乾海好き……好きなので語りが書けない)。
受だと思ってます。だから不二乾で塚乾(……)。ツダケンさんのお声で喘いで頂きたい。
天才二人に弄ばれる(塚は無意識、不二は意識的)努力家に萌え(…………)。
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