「手塚はさ、自分でSとM、どっちだと思う?」
不二からの突然の問い掛けに、手塚は眉根を寄せた。
二人は手塚の自室にて、間近に控えた定期テストの勉強中だった。居間で机を挟んで向かい合って座りながら、別々の問題集に取り掛かっている。そのため会話はなかった。暖房の音だけが部屋中に満ちていた。
そんな時にこの質問である。
目の前に座っているこの天才の突拍子もない思考回路にはいい加減慣れてきたつもりだった。それでも、何の前触れもなく突然意味のない質問するのは止めて欲しいと思う。
他にも質問内容に関してなど、いろいろと言いたい事はあった。だがまずは、会話には文脈というものがあるのだということを教えねばなるまい。
そう決意した手塚は、口を開こうとした。
だが先を越された。
「あ、服のサイズじゃないからね。あとファーストフードのでもないし。サディズムとマゾヒズム、嗜虐趣味と加虐趣味、どっちかって聞いてるんだよ?」
聞かれていないのに丁寧に説明する不二に、手塚は眉間の皺をさらに深くした。そんなことは言われなくても解っている。むしろそうじゃなければよいのだがと思っているところだった。
不二は目を輝かせて手塚の答えを待っている。手塚は一度これ見よがしに大きく肩を落とすと、左手に持っていたシャープペンシルの後でコツコツと机を叩いた。
固い口調で注意してやる。
「今は世界史をやっているんだろう。精神医学は関係あるまい」
二人の目の前に広げられているのは世界史の問題集だ。
だが、不二はつまらなさそうに口をとがらせた。
「関係あるよ、ほら」
と、ちょうど開かれていた世界史教科書のフランス革命のページを指差す。
……確かに、サディズムの語源となったサド公爵はこの時代の人間だ。民衆たちがバスティーユ牢獄を襲撃したとき、牢獄に囚われていた囚人の一人がこの公爵だったのだ。
だから、そこからサディズムを連想したって、まあおかしくないと言えばおかしくない。
「……ちなみに、牢獄で尿を入れる壷を与えられていなかったサドは、代わりに漏斗型のブリキを与えられており、その漏斗を使って革命に燃える民衆に『今こそ立ちあがれ!』と大演説したと言われている」
「へぇー……補足トリビアだね。ま、君の世界史豆知識はどーでもいいんだけど」
不二は何やら何回か手でボタンを叩くマネをした。
その後、手塚の方を正面から向いてにこりと微笑む。
「で、SとM、どっち?」
「…………」
「虐めるのと虐められるの、どっちが好き?」
雑学でごまかそうとしたが無駄らしかった。
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手塚はしばらく黙っていたが、ねーねーと不二はしつこかった。
「答えられるかそんなもの!」
荒立つ声をできる限り抑えながら手塚は叫んだ。そんな質問に答える義理はない。
だが、その激昂は全く気にしていない様子で、不二は笑っていた。
「実は聞くまでもないんだけどねー……虐められる方が好きでしょ、手塚」
「そんな訳があるか!!」
「だっていつも泣いたり痛がったり、でもなんだかんだ言いながら楽しんでるじゃん」
「誰がいつ泣いた!?」
「んーと一番最近のだと、一昨日の夜、つばめ返し試そうとした時に『痛い』って……」
「詳しく言わんでいい!!!」
手塚は思わず腰を上げて叫んだ。赤くなった顔を隠すように下を向きながら。
この場合の「つばめ返し」はもちろんトリプルカウンターの方ではない。
居間にいるのは二人だけだが、家の中には母親と祖父がいる。聞かれていたら大問題だ。
「手塚、やっぱりもうちょっと柔軟しようよ」
「お前に言われずとも解っている」
再び腰をおろすと、顔を合わせないように、横向きになって手塚は答えた。
「でないといろんな体位試せないし」
「だからいい加減そっちから離れろ!!」
思わず机を力一杯叩いた。湯のみがゆれて中の緑茶が溢れる。
だが不二はそんな手塚など気にしていない様子で、怖いぐらいに微笑み続けている。
「じゃあ答えてよ。嗜虐趣味と加虐趣味、どっちだと思う?」
いい加減叫び疲れた手塚は、はあ、と大きく溜息をつくと、静かに答えた。
「……どっちでも、ない」
不二はその答えに一度肯くと、でも、と返してきた。
「そうかな、立派にマゾだと思うんだけど。肩の痛み我慢しても試合を続けるなんて」
「………………」
「その後、それで負けた上に危うく選手生命の危機に陥るなんて。もう完全にマゾじゃん」
「…………………………」
不二の笑顔を手塚は直視できなかった。
怒っている。
氷帝戦が終わって九州に治療に行ってなんとか治療して帰ってきたというのに、まだ怒っている。
「怒ってる訳じゃないよ、もうそんな昔の事」
手塚の心理をちょうど読んだかのようなタイミングで不二は答えた。
「時効だし。これはただの厭味だから」
その声は穏やかなままだ。しかし、それこそが一番恐ろしい。
「ちゃんと帰ってきてくれたしねー……」
ふと、不二は笑顔を止めた。
表情の変化を、手塚は黙って見ていた。
「ま……、結局」
不二はふっと真顔になった。
「虐めたいのも虐められたいのも反転してるだけで同じ感情なんだろうけどね」
「……?」
「サディズムはさ、相手をいたぶる事で快感を得るんだろう? つまり、マゾの相手がいないと成立しないんだ。モノや人形を虐げて満足できるサディストってあんまり聞いた事ないし。マゾが痛がったり嫌がってるのを見て楽しむ、っていうのは、サドがマゾの気持ちを深層では理解しているからこそ楽しめるんじゃないかなって思うんだよね。マゾだって同じ。ただ発現の仕方が逆になっているだけで、もとは同じ感情から生まれてるんじゃないかなーって……」
「……そういう……ものか?」
手塚は訝しげな顔をした。不二の説明は天才肌ゆえか直感的なものなので、手塚にはなかなか理解しがたい。だが、思わぬ本質を突いていることは多い。
「んー、僕が勝手に考えてるだけ。SMって二つで一つの関係っていうか、一対でなきゃなりたたないところがあるからね……。特にサドにとってはマゾがいないと楽しめない訳だし。マゾは勝手に自傷行為でも楽しめるけどさ。でもやっぱり対になる相手がいてこそのサドとマゾだよ。サドはマゾを支配することでマゾに支配されているし、マゾはサドに支配されることでサドを支配する……支配と服従の逆転現象とか考えると、やっぱりサドマゾって基本的には同じ感情じゃないかな」
「…………」
手塚は半目になって不二を見ていた。途中までついていこうかと思ったが馬鹿馬鹿しくなったので止めたところだった。天才様の変態性癖講座に付き合わされるためにここにいるのではないのだ。
一人で暴走している自分に気付いたのか、不二はそこで話を終えた。照れ隠しに少し笑った。
「そういうことだから、だから君はマゾだけど、多分サド的素質も十二分に持ってるはず」
マゾ扱いがいつの間にか断定されていたが、もう何を言っても無駄だと思ったので注意しなかった。
「……実際、何かあるごとに部員たちにグランド走らせる姿見ていると、君ってサドだよなーって思うもん」
「……そうか」
果たして誉められているのだろうかそれは。
「……じゃあ、そう言うお前は、どっちなんだ?」
意趣返しのつもりだったが、不二はすんなりと答えた。
「だから、どっちもかな。虐める方が好きだけど虐められるのも好きかもしれない」
さらりとそう答える。
そして、頬杖をついて、不二は手塚の顔を見上げて意味ありげに口を笑みの形にした。
視線はまっすぐに手塚の方を向いている。
「……一人限定だけど」
「…………」
視線と視線が直線で交わる。
つまり、不二はそれが言いたかったらしい。
「……そう言うことを、だな」
手塚は拳を握り締めた。
「真顔で言うな!」
不二の頭めがけて思い切り拳を振り下ろすと、鈍い音が響いた。
「ったー……」
頭を両手で抑えながら、不二は涙目で手塚の方をうかがった。
「都合悪くなるとすぐに暴力に訴えるんだから……だから君、サドかもしれない、って……思うんだよ……」
まだそれを言うか、と思いながら、手塚は冷たい声を出した。
「お前もマゾかもしれないのだろう。それでSMの関係は成立しているはずだ」
余計な事を言ったらまた鉄拳を食らわす覚悟で、まだ拳を準備したまま、手塚はそう言った。
その言葉を聞いて、不二はぽかんと目を見開いた。
頭をまだ抑えたまま、恐る恐る問い掛ける。
「…………えーと、手塚」
不二が妙な顔をしているので、手塚も少し気になった。
「何だ」
不二はしばらく言いよどんでいた。
「あの、……えーと、その……今の、凄い告白だったよーな気がするんだけど……?」
「……!!!!」
不二の指摘に、手塚ははっと口を抑えた。
……言われてみれば。
しかもかなり問題のある方向で。
俯いた手塚の顔を、不二は机に身を乗り出して覗き込んだ。
「あれ? 自覚無かった?」
「……ッ……!」
手塚は身を引いて不二から離れた。正直、今は顔を合わせられなかった。
「ねーねー、それってそのままの意味でとっていいの?」
だが不二は、机を回り込んで手塚の横に迫ってきた。肩に手を掛けて、答えを求めてくる。
だが答えられるはずがない。正直無意識だったので、自分でも混乱しているのだから。
何も言わない手塚に対し、不二は業を煮やしたようだった。
「ねー答えてよ……」
「う、うるさい!」
構ってくる不二を振り払うように手を振り回すが、不二はしつこく寄って来た。
「それって……SMプレイ希望ってこと?」
手塚の頭の中で何かがプツリと音を立てて切れた。
人がお前の事で混乱しているのに、何故またそっち方向に話を持っていくのだ。
「…………そんな訳があるか!」
「ぶっ」
左手で赤い顔を隠したまま、右手の裏拳で不二の顔面を殴りつけた。
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「あ、ついでに。マゾヒズムの方はオーストリアの作家ザッヘル=マゾッホからきてるんだって。サド公爵は有名だけどこっちって意外と知られてないんだよね」
気を取り直して。
元いた位置に戻り、問題集に再び取り掛かり始めた後、しばらくしてから不二が誰にともなくこう言った。
「……ほお」
そう答えると不二は苦笑した。
「……まあ君が民放見てるとは思わないけど」
「…………?」
やっぱり不二の思考回路にはついていけない手塚だった。
……いつの話だろう。中三二学期末ってことで。手塚、マジでそれぐらいには帰ってきてくれ……
SとM、ていうかトリビアですな(謎)。時事ネタかしら。
まあネットで調べればすぐに出てくる豆知識です。便利な世の中になったもんだ。
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